前野長康 (まえの ながやす) | げむおた街道をゆく

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前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。但馬国出石城主。



ー 生涯 -
羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。俗に言う秀吉の墨俣一夜城築城に協力したといわれている。
信長没後、秀吉が天下人に上る過程の天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い[1]、天正13年(1585年)の四国攻めに参加して武功を挙げたため、同年閏8月に秀吉から播磨国三木から但馬国出石に5万3,000石で加増移封された。
豊臣政権下では聚楽第造営の奉行を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇行幸の際には、その饗応役を務めた。天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)の文禄の役にも参加して武功を挙げ、11万石に加増されている。
豊臣秀次付の家老となった後、文禄4年(1595年)に秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長康も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて中村一氏に身柄を預けられ、自害を命じられた。享年68。


以上、Wikiより。



前野長康