前野忠康 (まえの ただやす) | げむおた街道をゆく

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前野 忠康(まえの ただやす、永禄3年(1560年) - 慶長5年9月15日(1600年10月21日)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。舞野 兵庫助(まいのひょうごのすけ)とも呼ばれ、一般的には舞兵庫(まいひょうご)の名で知られている。



ー 経歴 -
妻は豊臣氏の家臣・前野長康(坪内光景)の娘とされる(『武功夜話』には忠康自身も長康の弟の子であったとも)。はじめは豊臣秀次に仕え、若江八人衆の一人として各地を転戦した。文禄4年(1595年)の秀次弾圧時には、秀次近親者どころか関わりのある諸将でさえも処罰の対処となった。秀次の附家老であった岳父の長康と、その子である景定も切腹を言い渡され、忠康は浪人を経て石田三成に召し抱えられている。
関ヶ原の戦いでは石田三成隊の前衛部隊として黒田長政隊や田中吉政隊と激戦を繰り広げ、何度も押し返すなど島清興と共に獅子奮迅の戦いをみせた。しかし小早川秀秋隊の裏切りなどにより西軍が敗北濃厚になると戦線は崩壊。敵陣へ切り込み、嫡男とともに討死した(一説には逃亡したという伝聞もある)。


以上、Wikiより。



前野忠康