津田 秀政(つだ ひでまさ、天文15年(1546年) - 寛永12年1月29日(1635年3月18日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。江戸幕府旗本寄合。津田秀重の子。幼名は愛増。通称は小平次。諱は正秀とも。号は興庵。妻は滝川一益の養女[1]。
ー 生涯 -
出自と関東入国
織田氏庶流の津田氏の生まれであり、父の秀重とともに織田信長に仕え、岳父の滝川一益の与力として旗下に加わる。天正2年(1574年)3月、信長の嫡男・信忠の命より、祖父・織田秀敏の跡を継いだ。
天正10年(1582年)2月の甲州征伐にも従軍し、同年3月23日の一益の上野国拝領に伴い松井田城を任され、後閑氏の後閑城を攻め落としている。しかし、同年6月18日、19日の神流川の戦いに一益が敗れるとこれに合流し、伊勢及び尾張に帰還した[2]。
三度の仕官
天正11年(1583年)、一益が賤ヶ岳の戦いにより没落すると、浪人した[1]。その後、信長の次男・信雄に仕え、伊勢三重郡高角郷に800貫文を知行した[3]。その後、信雄が没落すると豊臣秀吉に馬廻として仕えた。文禄元年(1592)7月、肥前名護屋城の本丸番衆に名を連ねている[4]。
慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を与えられて計4,010石余の大身旗本となった[1]。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。
妙心寺と隠棲
慶長11年(1606年)、嗣養子・津田正重が死去すると、滝川一益がその子・九天宗瑞を開祖として起こした「暘谷庵」(京都妙心寺)を再興し「暘谷院」として、津田家の菩提寺とした。慶長19年(1614年)大坂の陣に従軍している[1]。元和2年(1616年)に剃髪、京都に隱棲し興庵と号した。寛永12年(1635年)に死去。享年90[1]。法名は長興院殿光岩道景大居士。
この時、前述の暘谷院は、津田秀政の号名にちなんで院号を「長興院」と改めている。長興院は、後に九天宗瑞と慈徳院が織田信忠の菩提所として開創した「大雲院」を併合した。[5]
以上、Wikiより。