長寿院盛淳 (ちょうじゅいん もりあつ) | げむおた街道をゆく

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長寿院 盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)は、戦国時代の武将。島津氏の家臣。



ー 経歴 -
蒲生地頭。大善坊。法名は一超日純。畠山氏の一族であり、室町幕府三管領の一つで守護大名・畠山氏の分家と主張する。「長寿院」は出家した後の名乗りであるがこちらの方が有名である。父は畠山頼国、子は畠山忠栄。のち忠栄は屋敷を阿多甚左衛門に譲与して出家したため阿多吉房と呼ばれ、以降子孫は阿多氏を称した。そのためか盛淳も阿多盛淳、阿多長寿院と阿多姓で称されることが多い。
祖父の代に京都から薩摩に移ったと言われており、父頼国の意向により幼少の頃に大乗院へ仏門入りし、3歳から木食上人のいる高野山で修行し、11歳で根来寺に移り修行を重ねた。その後故郷に戻り安養院住持となり島津義久の奏者として仕え、島津氏の九州統一で活躍をみせる。その後豊臣秀吉の九州征伐で島津氏の旗色が悪くなると和睦を主張し、秀吉と義久の和睦を取り持ったと言われている。以後、石田三成の指揮下で、伊集院忠棟と共に中央政権との関係を深め、太閤検地の奉行なども担当している。ゆえに反秀吉の想いがまだ根強く残っていた国人層からは怨嗟の対象となっていたとされる。
義久が隠居した後は島津義弘に家老として仕えた。1600年の関ヶ原の戦い本戦にも蒲生から士卒70名を率いて駆けつけ、義弘に従って参戦する。「島津義弘公記」には盛淳が到着したと聞くや義弘が手をとって出迎えた様が記されており義弘からの信頼が厚かったことがうかがえる。また、着陣の折義弘が秀吉から賜った白い鳳凰模様の陣羽織を盛淳に贈り、石田三成は軍配を贈ったといわれている。
盛淳が最も名を馳せたのは「鳥頭坂の退却戦」である。関ヶ原の戦いで西軍が総崩れとなり島津軍が敵中孤立した際、島津豊久の進言で義弘は数万の大軍を縫って敵中突破を敢行した。烏頭坂で討死にした豊久に続き、盛淳も先述の義弘から拝領した陣羽織と、三成から拝領した軍配を身につけ、義弘の影武者となり、自ら義弘の名を名乗って奮戦し、乱戦の末に家来18名と共に牧田上野で討死した[1]。享年53。



ー 逸話 -
先述の通り、秀吉の九州征伐後、義弘の重臣として中央政権と島津家の関係を深めようと積極的に活動しており、中央政権と距離を置きたいと考え中央との関係に消極的であった島津義久と、その家臣団からは疎まれていたようである。実際に、義久から島津忠恒に宛てた手紙で「義弘は長寿院を重用しているようだが、後々後悔するに違いない」というものが残っている(彼自身も義久家臣団の反発を感じており、一度は検地奉行の辞退を申し出ている)。


以上、Wikiより。



長寿院盛淳