伊達政宗 (だて まさむね) | げむおた街道をゆく

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伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名・伊達氏の第17代当主。仙台藩初代藩主。
伊達氏第16代当主・伊達輝宗と正室最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれた嫡男。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。



ー 生涯 -

出生から初陣まで
永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で生まれた。幼名は梵天丸。天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。史料上にも「正宗」と書かれたもの幾つかがあるがこれは誤記である。伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが[1]、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって京より追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。天正7年(1579年)には仙道の戦国大名であった三春城主田村清顕の娘愛姫を正室に迎える。天正9年(1581年)4月、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る。

家督相続から摺上原の戦いまで
天正12年(1584年)10月、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となる。この時政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けている。
小浜城主・大内定綱は二本松城主・畠山義継と手を組み、田村氏の支配から脱却しようとした。天正13年(1585年)、政宗は大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめの為として撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにしている。大内定綱の没落を間近で見た義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを二本松領として安堵されることになった。ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出た所を拉致される。当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。この事件については、鷹狩中の手勢がなぜ鉄砲で武装していたかを根拠に、政宗による父殺しの陰謀と見る説もある[2]。
その後、初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲したが、11月17日に二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で激突した。数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥ったが、殿軍を務めた老臣・鬼庭左月斎の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵により辛うじて窮地を脱した(人取橋の戦い)。
関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
天正16年(1588年)、北方の大崎氏家中の内紛に介入して兵10,000を侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北。さらに政宗への反感を強めていた伯父・最上義光が大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされたが、両軍の間に割って入った母・義姫の懇願により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。一方、これに乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻してきたが防衛し、愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した(郡山合戦)。
天正17年(1589年)には会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原で破った(摺上原の戦い)。敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、ここに戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。この頃になると惣無事令を遵守して奥州への介入に及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親・石川昭光・岩城常隆らが次々と伊達方に転じて政宗に服属し、なおも抵抗を続けていた二階堂氏などは政宗により滅ぼされた。
このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。これに加え上述の白河結城氏ら南陸奥の諸豪族や、また現在の宮城県北部や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった[3]。

小田原合戦と豊臣政権下
この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承していた。伊達家にも秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が幾度か届けられており、政宗はこれを黙殺していた。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。
秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である天正18年(1590年)5月には、豊臣政権の五奉行筆頭の浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に至った。秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵した。このとき遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたという。この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。政宗が秀吉に服属してほどなく、北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、政宗の居城・黒川城へ入城した秀吉は奥州仕置を行った。ここに秀吉の日本統一が達成された。
江戸時代に仙台藩第4代藩主・伊達綱村(政宗の曾孫)が作らせた『伊達治家記録』には、小田原参陣前に兄の最上義光にそそのかされた義姫によって毒殺されそうになり、義姫を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺したため義姫は実家に逃走したと書かれており、これが通説となっていた。しかし実際には義姫はその後も伊達家にとどまっており、政宗の朝鮮出兵の頃から母子は親しく手紙のやりとりをしている。義姫が実家の山形城へ突如出奔したのはこの4年後であることが一次史料からすでに明らかになっている(詳細は義姫参照)。この「毒殺未遂事件」の正体は、反政宗派一掃のための狂言説もある。
翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城(城名を岩出山城に変えた)へ58万石に減転封された。このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられ、本拠の岩出山城が大崎氏旧領であったことから、政宗は「羽柴大崎侍従」と称した[4]。
文禄2年(1593年)秀吉の文禄の役に従軍。従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった。3000人もしくは1500人の軍勢であったとの記録がある。他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった[5]、と伝えられる。朝鮮半島では明との和平交渉中の日本軍による朝鮮南部沿岸の築城に際して、普請を免除されていたにも関わらず秀吉からの兵糧の支給を断って積極的に参加するなどして活躍した。ちなみに政宗は、慶長の役には参加していない。
文禄2年以降浅野長政が取次として伊達政宗と豊臣政権のパイプとなっていたが、文禄5年8月14付けの書状で政宗は長政の態度に我慢がならずに絶縁状を送りつけて絶交を宣言した[6]。秀吉に早くから服属して五大老に選ばれた大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立したため、五大老には選ばれなかった。
文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹した。秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。政宗も秀吉から謀反への関与を疑われ、伊予国への減転封を命じ居られそうになったが、湯目景康・中島宗求の直訴の甲斐もあって最終的には赦免された。ただし、在京の重臣19名の連署で、政宗が叛意を疑われた場合には直ちに隠居させ、家督を兵五郎(秀宗)に継がせる旨の誓約をさせられている。
秀吉の死後、政宗と五大老・徳川家康は天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。

関ヶ原の戦いと最上陣
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐を行うと、これに従い7月25日には登坂勝乃が守る白石城を奪還した。家康が畿内を離れた隙をついて五奉行の石田三成らが毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵したため、小山まで北上していた家康は西へ向かうが、この翌月、家康は政宗に対して岩出山転封時に没収されこの時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す旨の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。これは政宗が南部利直領の和賀・稗貫・閉伊への侵攻許可を得るため、南部氏が西軍に通じているとしきりに家康に訴えていたことから、お墨付きを与えることで政宗が対上杉戦に集中するよう仕向けたものであった。
同年9月、関ヶ原の戦いが勃発。西軍の上杉家重臣直江兼続率いる軍が東軍の最上氏の領内に侵入すると(長谷堂城の戦い)、東軍に属した政宗は、最上氏からの救援要請を受けて叔父・伊達政景率いる3,000の兵を派遣し、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した[7]。関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わり、直江兼続もまた最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越えて南進し、10月6日に福島城主本庄繁長の軍勢と衝突する。宮代表の野戦では威力偵察に出た大宝寺義勝(繁長の子)率いる上杉軍を破ったものの、続く福島城包囲戦では繁長の堅い守りに阻まれて攻城に失敗、さらに上杉軍の別働隊に補給線を断たれたため、翌日には北目城へと撤退した(後世の軍記物に見えるいわゆる松川の戦いのモデル)。
この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵したが、結局は緒戦の失敗を取り戻せず、旧領6郡のうち奪還出来たのは陸奥国刈田郡2万石のみであった。加えて、政宗が南部領内で発生した和賀忠親による一揆を煽動し、白石宗直らに命じて忠親を支援するため南部領に4,000の兵を侵攻させていたことが発覚した(岩崎一揆)。この一件は最終的には不問に付されたものの、政宗が希望した恩賞の追加はことごとく却下され、領地は60万石となった(後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。

仙台開府と慶長遣欧使節
慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設を始め、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した[8]。
仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台の城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。

大坂の役
慶長19年(1614年)の大坂の役(冬の陣)では大和口方面軍として布陣した。和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。その年の12月、将軍秀忠より伊予宇和郡に領地を賜る。翌年、慶長20年(1615年)の大坂の役(夏の陣)道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。
なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった[9]。
一説によれば、翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにしたという(6日の道明寺の戦いで発生したとする説もある)。神保隊は全滅し、相茂自身も討ち死にして遺臣が水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張したとある(『薩藩旧記』巻六)。
この風聞は直後から様々な興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では後藤隊休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説や、手柄を妬んでの味方討ちとする説も書かれている。ただし、政宗がこの事件について咎めを受けた記録は無く、幕府の記録(寛政重修諸家譜)にも「(神保相茂は)奮戦して死す」とのみ記述されており、幕府が政宗に配慮し抗議を黙殺した、あるいは水野家家中への味方討ちに尾ひれが付いた伝聞が広まった可能性などが考えられる。(詳細は神保相茂の項を参照)
戦後の論功行賞で伊予国の内で10万石が政宗の庶長子である伊達秀宗に与えられた(宇和島藩)。

晩年
世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、内高74万5千石相当(寛永惣検地)の農業生産高を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻から海路江戸へ米を移出する体制が整う。寛永9年(1632年)より仙台米が江戸に輸出され、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」と『煙霞綺談』に記述されほどになる。
2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕えた。寛永12年に家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなった。家光は下城する政宗に護身用に10挺の火縄銃を与えた[10]。
健康に気を使う政宗だったが、寛永11年(1634年)頃から食事不振や嚥下に難を抱えるといった体調不良を訴え始めていた。寛永13年(1636年)4月18日、母義姫を弔う保春院の落慶式を終えた後、城下を散策した政宗は経ヶ峰に杖を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。そこが後の瑞鳳殿である[10]。2日後の20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ、宿泊した郡山では嚥下困難に嘔吐が伴い何も食べられなくなっていた。28日に江戸に入った頃には絶食状態が続いた上、腹に腫れが生じていた。病をおして参府した政宗に家光は、5月21日に伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。政宗は行水して身を整え、家光を迎えた。しかしお目見え後に奥へ戻る時には杖を頼りに何度も休みながら進まざるをえなかった[10]。
5月24日卯の刻(午前6時)死去。享年70(満68歳没)。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている[10]。「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。殉死者は家臣15名、陪臣5名。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。これは御三家以外で異例のことであった。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。
法名から、没後は貞山公と尊称された。



ー 人物・逸話 -

「独眼竜」の由来
独眼竜は、元々後唐の李克用のあだ名で、江戸時代の頼山陽の漢詩によって政宗にあてられるようになった[11]。右目を失った原因は天然痘であった。政宗が隻眼の行者・満海上人の生まれ変わりであるという逸話は、政宗の存命中から広く知れ渡っており、東北地方の昔話の中には「仙台様(政宗のこと)の霊力で母親の病気を治してもらうために旅に出る農民の話」などが伝わっている。(東北放送ラジオ「みちのくむかしばなし」で語られた)

処世など
衆道関係においては、小姓の只野作十郎へ宛てた書状が残されている[12]。同じく衆道の関係にあった片倉景綱の息子重綱に対しても、大坂の陣出陣の前夜、翌日の先陣を願った重綱に、「そのほうに御先鋒仰せ付けられず候て、誰に仰せ付けられるべきや」と言って重綱の頬に接吻した、との記述が『片倉代々記』に残っている。
大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、白の死装束に金箔を塗った磔柱(十字架)を背負った姿で秀吉の前に出頭した。証拠の文書を突きつけられた際は、証拠文書の鶺鴒の花押の目にあたる部分に針の穴がない事を理由に言い逃れを行ない、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た。実際には2種類の花押を使い分けていた可能性が高く、秀吉も疑ったらしいのだが確証が得られなかった。但し、現存する政宗の書状の中に花押に穴の開いたものはない。
隠居所である若林城(現宮城刑務所)や政宗が再建した瑞厳寺、瑞鳳殿のある経ヶ峰歴史公園に朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている。このうち、経ヶ峰歴史公園の「臥龍梅」は1979年(昭和54年)の瑞鳳殿の再建に際して、若林城跡から移植したものである。大悲願寺13世海譽の弟子として在山していた弟・秀雄の元を政宗が訪れ四方山話をし庭にあった白萩を気に入り所望した際に[13]かわりに臥龍梅を大悲願寺に贈っている。
ある日、秀吉は政宗にこう言った。「汝が予を裏切ろうとしておることを予は熟知している。よって汝は殺されてしかるべきだ。だが汝は名護屋に赴き、朝鮮に渡り、よく尽くしたゆえ、生命を助けてやることにした。ただし汝を奥州には帰らせず、予の近くに留め置くであろう」(フロイス日本史)そして人々は、秀吉はすでに政宗の俸禄を没収した、あるいはしていないと噂したという。
明和7年(1770年)に仙台藩士・飯田道時が著した軍記物『伊達秘鑑』には、政宗の下には離間・扇動工作に従事した黒脛巾組という忍者集団がいたとしている。黒脛巾組関連の人物名には実在の伊達家臣の名が借用されているが、上級史料には黒脛巾組という名称や類似の集団の記述は見当たらない。

徳川家との関係
徳川家光からは非常に尊敬されており、「伊達の親父殿」と呼ばれたこともある。政宗本人の器量に加え、自らを将軍として立ててくれた後見人であり、また敬神する祖父・家康とも渡り合った戦国の雄でもあって、家光にしてみればあらゆる面で父親代わりだったのであろう。幕府の意向はどうあれ、家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様を遇する程度を超えていた。将軍の前での脇差帯刀を許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると、中身は木刀(竹光)であったという。
二条城へと参内する際、御三家でも許されなかった紫の馬の総を伊達に与えた。政宗が病床についた際は、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、死の3日前には家光自らが見舞いに来た。政宗が亡くなると、父・秀忠が死んだ時よりも嘆き入り、江戸で7日、京都で3日の間殺生や遊興が禁止された。実戦経験がない家光は、しばしば政宗など実戦経験豊かな大名に合戦について質問をした。ある日、政宗と佐竹義宣を招いて摺上原の戦いについて色々質問したが、勝者であった政宗が雄弁であったのに対し、敗者の佐竹義宣は始終無言で、唇を噛みしめているだけであったという。
老年期、徳川秀忠を屋敷に招いた際、秀忠に生前の豊臣秀吉から下賜され常に差していた刀を譲るように要求された際、「殿に御献上する品を選ぶのは家臣である私の勤めです。殿自ら子供のように品を所望されるのは、将軍家の品位を大きく損なうものでございます」と反駁したと伝えられる。
政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてローマに派遣した(慶長遣欧使節)。このときのことを示す有力な史料もある。支倉常長はエスパーニャとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」と発言している[14]。また、仙台藩の庇護を受けていた宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスも、次のような手紙を本国に送っている。
テンカドノ(家康)は政宗がエスパーニャ国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、エスパーニャ国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた。

支倉常長はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔と推測される人たちが存在している。彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている[15]。
軍記物『東奥老子夜話』によれば、政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合を想定し、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたとされる(史料[16])。 幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。家康晩年の1616年(元和2年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。
1628年(寛永5年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の1618年(元和4年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。
徳川秀忠は1632年(寛永9年)1月に死去したが、このとき秀忠は政宗を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。
年月より病気次第に心重く覚候。兎角して快気難成覚候間。少も本心の有内に。其方へ掛御目度事は昔より今日至迄。御心指一ツとしてわするる事なし。大御所(家康)様駿河の御殿にて御病気重き折節悪き者の申入候にて、己に其方謀反のよし其聞へ候間。我等も御病気にもかまはず奥州へと心掛候。

(家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州討伐のための軍を起こそうとしていた)

仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。
家光の就任の宣言は「祖父、父とは違い、自分は生まれながらの将軍であるから、大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異論があるならば国へ帰り戦の準備をされよ」という大変威圧的なものであった。政宗はこれに対し「政宗はもとより、異論のある者などおるはずがありませぬ」と即座に継ぎ、その場の皆が平伏したとされている。
家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光を説得、以後下宿を行わなくなったという。(ただしこの逸話は一級の資料には見られず創作の可能性が高い)
元和6年(1620年)に息子の秀宗が家臣の山家公頼を殺害するという事件(和霊騒動)を起こした際、政宗は激怒して秀宗を勘当し、さらに老中の土井利勝に対して「秀宗は大虚けで到底10万石を治める器では無いので召し上げてほしい」[17]と幕府に願い出た[18]。この件は秀宗の義兄井伊直孝と利勝、柳生宗矩らにより収拾されたが、この勘当と改易願いは宇和島藩改易を回避するための政宗捨て身の大芝居といわれる[18]。

趣向など
料理が趣味。元々は兵糧開発が主眼であり、岩出山名物の凍り豆腐と納豆(ずんだ)は政宗の研究の末に開発されたものであった。仙台城下には味噌倉を建てていたが、味噌の大規模な生産体制が確立されたのはこれが最初といわれる。太平の世になると美食を極めることに目的を変えて料理研究を続けた。『政宗公御名語集』には「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」という政宗の料理観が残されている。この金言は和・洋・中を問わず後世の多くの料理人に感銘を与え、伊達家御用蔵が母体となっている宮城調理製菓専門学校のほか、服部栄養専門学校などでも校訓に引用されている。こうした料理に対する政宗の情熱から、今日の仙台名物が政宗の考案によるものだとする説がある。ずんだ餅や笹かまぼこが代表例だが、笹かまぼこについては、宮城県水産試験場の資料では、江戸時代中期に生まれた物と書かれてある。
料理の他にも多くの趣味を持ち、晩年は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったという。特に若年から習っていた能には傾倒しており、奥小姓を太鼓の名人に弟子入りさせたり、自身も豊臣秀吉や徳川家光の前で太鼓を打つなどしている。政宗が晩年、能に使用した費用は年間3万石余に及んだという。
秀吉が吉野で歌会を開き武将達はそれぞれ詩歌を詠んだ時、政宗が最も和歌に精通し優れていた。そのため秀吉も「鄙の華人」と褒め讃えた。詩才に関して、司馬遼太郎は短編小説『馬上少年過ぐ』の中で、歴史上高名な武将のものとしては古代中国の曹操にも比肩すべきものとしており、政治家としての側面にはその詩心が反映されていないことも二人の共通点であるとしている。晩年の政宗が残した漢詩に『酔余口号』という作品がある。
馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何

(書き下し文)馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずんば是いかん/楽しまずして是を如何にせん

前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は「楽しまずんば是いかん(これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまずして是を如何にせん(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う2通りの訓みと解釈ができてしまう。政宗自身がどちらともとれるように作った可能性もあるが、政宗の残した大きな謎となっている。
隙のない印象の政宗であるが、酒には滅法弱く、酔って失敗した逸話がいくつか残されている。中には将軍秀忠との約束を二日酔いですっぽかし、仮病を使って言い抜けたという話まである。[要出典]酒自体は大変好んでおり、仙台城に酒の醸造所を作らせていたほど味に拘っていた。
養生法が変わっていて、冬に炬燵の片側を開けさせていた。朝は早く目が覚めても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しないという拘りがあった。身体の健康を常に気遣っていた。
喫煙者で、毎日起床後・昼・睡眠前と、規則正しく3回煙草を吸っていた(当時の人々は煙草を薬として服用した)。遺品に、愛用のキセルがある。
遺品にロザリオがあったことなどから、政宗は密かにキリスト教に帰依していたのではないかとする説もある。政宗の長女の五郎八姫は一時期キリシタンだったことがある。

伊達政宗五常訓
ウィキソースに伊達政宗五常訓の原文があります。
明治時代以降、伊達政宗の遺訓とされるものが俗説として流布している。
これらは幕末から明治にかけて水戸光圀、林子平などの遺訓とされ、伊達政宗の遺訓としては明治27年の好古叢誌第三編八の巻漫録「仙台黄門政宗卿遺訓」が初出だが、伊達氏に関連する史料の中にその根拠となるものは見当たらないという[19]。

その他
伊達邦宗(政宗の直系子孫)が著した『伊達家史叢談』に、明治天皇が政宗を「政宗は、武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いを馳せて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗の事である」と評したと記されている。


以上、Wikiより。



伊達政宗