伊達晴宗 (だて はるむね) | げむおた街道をゆく

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伊達 晴宗(だて はるむね)は、陸奥の戦国大名。伊達氏の第15代当主。



ー 生涯 -
永正16年(1519年)、第14代当主・伊達稙宗の長男として生まれる。天文2年(1533年)、第12代将軍・足利義晴の偏諱を受けて、晴宗と名乗った。
天文11年(1542年)6月、父の稙宗がさらに勢力を拡大するため、越後守護・上杉定実の養子に弟の時宗丸を出そうとした(養子縁組の準備として時宗丸には定実から一字を拝領して実元と名乗らせた)ことと、義兄相馬顕胤に伊達領を割譲しようとしたことに反対し、重臣の中野宗時・桑折景長らと共謀して父を西山城に幽閉し、実元の養子縁組を阻止した。ところが、父・稙宗は小梁川宗朝によって西山城から救出され、さらに稙宗が奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、天文の乱が勃発した。この内乱ははじめ稙宗方が優勢で、晴宗方は敗戦続きであったが、天文16年(1547年)にそれまで稙宗を支持していた蘆名盛氏が田村氏や二階堂氏との対立により晴宗方に寝返ったことから形勢が逆転し、天文17年(1548年)3月の将軍・足利義輝の停戦命令を受けて、同年9月には晴宗方優位のうちに和睦が成立。晴宗が家督を相続して第15代当主となり、稙宗は丸森城に隠居した。
当主となった晴宗は米沢城に本拠を移すと、天文の乱により動揺した伊達氏家臣団の統制に着手する。天文22年(1553年)1月17日には、『晴宗公采地下賜録』を作成し、天文の乱の最中に両陣営によって濫発された安堵状を整理して、新たに家臣団の所領と家格の確定を行い、同年には和睦を不服として抗戦を続けていた懸田俊宗・義宗父子を滅ぼした。しかし、中野宗時をはじめとする天文の乱で晴宗方の主力を担った家臣には守護不入権などの様々な特権を付与せざるを得ず、晴宗政権は宗時らを中心に運営されていくこととなる。また、晴宗は6男5女(全て正室・久保姫の子)と子供に恵まれ、それらを岩城氏・二階堂氏・佐竹氏などに送り込んで縁戚関係を結ぶことで勢力の回復に努めた。天文24年(1555年)奥州探題職に補任された。父稙宗が陸奥守護に補任された際は大崎氏の奥州探題職を否定していないが、晴宗の補任は従来の幕府地方統治方針を変更するものだった[1]。永禄6年(1563年)の室町幕府により認可された全国大名衆50余名の中で、奥州(陸奥国)では蘆名盛氏と晴宗だけが大名として認められるという栄誉を受けている。
永禄7年(1564年)、二男・輝宗に家督を譲って隠居した[2]。ただし、この時点では依然として晴宗と中野宗時らが家中を統制していた。同年、蘆名盛氏が二階堂盛義(晴宗長女・阿南姫の婿)と対立し岩瀬郡に進攻すると、二階堂氏救援のために桧原を攻撃したが撃退され、永禄9年(1566年)に盛義が降伏すると、盛氏の嫡男・盛興に四女・彦姫(輝宗の養女となる)を嫁がせる条件で伊達・蘆名間でも和平が成立した。一方、永禄8年(1565年)に丸森城に隠居していた父・稙宗が死去すると相馬盛胤が丸森城を接収し、さらに伊具郡各所を手中に収めていく。このため天文の乱以来の伊達・相馬間での抗争が再燃し、以後およそ二十年間わたって丸森城をめぐる攻防が展開されることとなる。
隠居したとはいえ一向に実権を手放さない晴宗に対して、当主となった輝宗は不満を隠さず、両者の間にはしばしば諍いが生じていたが、永禄13年(1570年)4月、輝宗により中野宗時・牧野久仲父子が謀反の疑い有りとして追放されると、実権は完全に輝宗の手に移り、晴宗は杉目城に閑居する。以後は父子の関係も改善され、晩年には杉目城に一門や家来衆を招いてたびたび宴会を催し、その席では孫の梵天丸(のちの伊達政宗)が和歌を披露したという。
天正5年12月5日(西暦では翌1578年1月)、杉目城で死去。享年59。



ー 人物・逸話 -
晴宗が正室の久保姫を娶った経緯については、当初久保姫は父・岩城重隆の意向で結城晴綱に嫁ぐことになっていたが、久保姫の美貌を知って惚れ込んでいた晴宗が自ら軍勢を率いて輿入れの行列を襲撃して久保姫を連れ去り、強引に正室にしたとされている[3]。晴宗と久保姫の夫婦仲は良く、長男の親隆を岩城氏に入嗣させていたこともあって岳父・重隆との関係も改善され、天文の乱に際して援助を受けている。久保姫は晴宗没後に出家し、宝積寺を建立して亡き夫を供養した。その後は、孫の政宗を頼って宮城郡根白石に移住し、同地で文禄3年(1594年)に74歳で没した。


以上、Wikiより。



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