多田満頼 (ただ みつより) | げむおた街道をゆく

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多田 三八郎(ただ さんぱちろう、生年不詳 - 永禄6年(1563年))は戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣で足軽大将。武田信虎・武田信玄の2代に仕える。三八・三八郎、淡路守[1]。諱は『寛永諸家系図伝』に拠れば「昌澄で」、『甲斐国志』人物部第五に拠れば「満頼」としているが、文書上からは確認されない[2]。法名は宗樊。妻は不詳だが、『寛永諸家系図伝』に拠れば土屋昌続の妹とする説がある[3]。子は『甲陽軍鑑』に拠れば新蔵・久蔵、『寛永諸家系図伝』に拠れば新八郎(八右衛門)、昌俊とされる[4]。また、同じく武田家の足軽大将である治部左衛門も縁者と考えられている[5]。後代には武田の5名臣に含まれる。



ー 略歴 -
摂津源氏一族の多田源氏後裔と称し、源頼光の孫の多田頼綱或は、源満仲の弟の源満季の子孫というが、系譜は詳らかではない。
『甲陽軍鑑』に拠れば、美濃国の生まれで、弓矢修行のため甲斐国に渡り武田信虎に仕え足軽大将となったという[6]。晴信にも仕え、二十九の武功を挙げ、全身に二十七カ所の傷があったする逸話を持つ[7]。原虎胤、横田高松、小幡虎盛、山本勘助とともに五人衆と称されたという[8]。預けられた足軽・同心数は不明[9]。
確実な記録資料上においては、天文16年(1547年)8月の信濃国佐久郡・志賀城攻めにおいて活動が見られ、関東管領・上杉憲政の援軍との小田井原の戦いにおいて板垣信方らと活躍している(『勝山記』)。翌天文17年(1548年)には信濃守護・小笠原長時との戦いにおいて信玄から感状を受けている[10]。
『甲斐国志』においては、三八郎が信濃虚空蔵山砦(長野県上田市塩尻)を警護していた際に地獄の妖怪「火車鬼」を退治したという伝説や、山梨県甲府市湯村の湯村温泉で天狗を倒した鬼の湯伝説が残っている[11]。
永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いの頃は、既に病床にあり、自分の代わりに息子を参戦させている。その2年後の永禄6年(1563年)に病死[12]。長野県諏訪郡富士見町境には多田淡路守の居城とされる先達城が所在し、近在の常昌寺には墓所がある[13]。


以上、Wikiより。



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