田尻鑑種 (たじり あきたね) | げむおた街道をゆく

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田尻 鑑種(たじり あきたね、生没年未詳)は、戦国時代の武将。田尻親種の子。鷹尾城 (筑後国)主。官は中務大輔、丹後守。



ー 生涯 -
田尻氏は筑後の国人、筑後十五城の一つ。初め大友氏に仕え、大友義鑑から偏諱を与えられるなどして重用されたが、義鑑の子・義鎮(宗麟)の代の耳川の戦いを機に大友氏から離れ、天正7年(1579年)に龍造寺隆信に臣従する。そして三池鎮実攻めや肥後筒岳城攻めなどで武功を挙げるなどした。また、隆信が鑑種の縁者である蒲池氏の柳川城を攻め、蒲池鎮漣の一族郎党を誅滅する際も助勢した。
天正10年(1582年)8月に、龍造寺政家と鍋島信生(後の鍋島直茂)が瀬高上ノ庄へ鵜飼見物に出たのであるが、二人が鵜飼見物に事寄せて鑑種と蒲池家恒を呼び寄せ討ち果たす心算であるとの噂が立った。これに対し、家恒は弁明に努めたが、一方の鑑種は隆信・政家・信生らが誤解であるとして起請文を送っても一切弁明せず、遂に同10月に謀反に及ぶ。鑑種は諸所を放火の上で居城の鷹尾城に籠城した他、縁戚をそれぞれ江ノ浦城・濱田城・津留城・堀切城に入れて、同じく籠城させた。更に同12月、鑑種は大友氏と島津義久に助勢を依頼、大友氏は準備が間に合わず果たせなかったが、義久はこれに応じ、翌天正11年(1583年)1月に帖佐宗光・田尻但馬ら300余を鷹尾城へ送っている。
城は何れも堅城で、龍造寺勢は一つとして落とすことが叶わなかった。同年7月、秋月種実の仲裁で両家の和談が成立しかけたが、条件の面で折り合わず破談となった。龍造寺勢は再び城攻めを行うがやはり落とせず、やむなく鍋島信生は、江ノ浦城主田尻了哲の知己である百武賢兼に了哲との和談を命じこれを果たした。更にその了哲を介して鑑種との和睦を行うと鑑種はこれに応じ、12月に田尻一族が龍造寺政家に起請文を出し、鷹尾城を明け渡し佐嘉郡に移住する一方、新地200町を与えられることを条件に和談が成立、以後は龍造寺家臣に復帰した[1]。
但し、島津氏の史料である『本藩人物誌』では、和談成立後に100名余を連れて隆信と会すべく進んでいる最中に、龍造寺方の伏兵により討ち取られたとする。また、その子である喜平次も殺されかけたが、隆信の母である慶誾尼に助命され僧になり、後に還俗し大友氏に仕えて田尻統種と名乗った後に出奔、浪人して島津義弘に仕えたと記述される[2]。


以上、Wikiより。



田尻鑑種