武田 元光(たけだ もとみつ)は、戦国時代の大名。若狭武田氏の第6代当主。第5代武田元信の次男。官位は伊豆守、大膳大夫。
ー 生涯 -
明応3年(1494年) 、武田元信の次男として誕生。幼名は彦次郎。
永正16年(1519年)11月に父の元信が出家したため、家督を継承して若狭国守護となる。領国支配を固めるため若狭へ下向し、遠敷郡の最西端に堅固な後瀬山城を築き本拠とした。
代々の宿敵である丹後一色氏との抗争([1])に加え、管領家細川氏の内紛に積極的に介入し、管領細川高国を助け細川澄元を追い、足利義晴の将軍擁立に成功した。ところが、丹波国の波多野稙通と柳本賢治が高国から離反し、それに呼応して堺公方を擁立する細川晴元(澄元の子)が挙兵すると、高国を援助するため上洛し、晴元達と争うが桂川原の戦いにおいて敗北。将軍足利義晴を擁して管領細川高国と共に近江国に逃亡した。その後も高国派として晴元派の諸将と争う。
享禄3年(1530年)に出家し、天文8年(1539年)には病を発し、まもなく家督を子の信豊に譲り山麓の郭に隠居した(屋敷は後に発心寺となる)。高国の没落後も将軍義晴からの信任は厚かったが、度重なる隣国への出兵([2])は本国を疲弊させ、弟の武田信孝や被官である粟屋元隆や逸見氏が反乱を起こす([3])など、若狭国の支配は安定しなかった。
天文20年(1551年)、死去。
和歌にも優れた教養人であり、三条西実隆との交流の記録が残る([4])。
以上、Wikiより。