武田 信豊(たけだ のぶとよ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の親族衆で庶流の吉田氏を継いだ武田信繁の次男[1]。信豊は武田信玄の甥で[2]、武田勝頼の従弟に当たる。父・信繁が第4次川中島の戦いで戦死し、望月家に養子に入っていた兄・義勝(望月信頼)も父の死の直後に早世したため、信豊が跡を継ぐ。諱は『甲陽軍鑑』に拠れば当初は「信元」で後に「信豊」に改名したとされるが確認されない[3]。正室は西上野の国衆・小幡憲重の娘[4]。
ー 生涯 -
出生から家督相続
天文18年(1549年)、武田氏の当主・武田信玄の実弟である信繁の次男として生まれる。生年は『当代記』に記される享年34より逆算。信繁には3人の男子があるが、信豊の2歳年長の兄である義勝は信濃国の望月氏の名跡を継いで望月信頼(三郎)として親類衆となっており、信豊の母が正室であったため嫡男として扱われていたと考えられている[5]。永禄元年(1558年)には信豊にあたる「長老」に対して「武田信繁家訓」を授けている[6]。これは九十九か条の家訓で、『群書類従』巻403に収録されている。『群書類従』では「信玄家法下」と呼称されているが、これは甲府の長禅寺二世・龍山子(春国光新)による序文の位置の誤りから生じた呼称とされ、現在では古写本の堀田本に基づき「武田信繁家訓」と称されている[7]。
永禄4年(1561年)9月、第4次川中島の戦いにおいて父の信繁が戦死し、信豊は後を継いで親族衆に列する[8]。なお、望月氏は、信頼(武田義勝)も第4次川中島の戦いの直後に死去しており(病死とも戦傷死ともいわれる)、信繁の三男で信頼と信豊の弟・信永が継承している。『甲陽軍鑑』に拠れば信豊は200騎を指揮したという[9]。『甲陽軍鑑』によれば信豊は武田家臣団において親族衆の穴山信君とともに勝頼を補佐する立場にあったという。
信玄・勝頼期の活動から滅亡
永禄10年(1567年)8月、武田家では信玄の嫡男である義信が廃嫡される義信事件が起こる。これに際して家臣団の動揺を統制するため行われた生島足島神社への起請文があり(下之郷起請文)、「六郎次郎」の仮名が見られ、これが信豊の初見文書となっている[10]。なお、親族衆では信豊と叔父にあたる信廉も起請文を提出している。
永禄12年には武田氏の駿河侵攻に際して世子となった諏訪勝頼(武田勝頼)とともに相模国の後北条氏の蒲原城を攻略しており、この時は「左馬助」を称している[11]。元亀3年(1572年)の西上作戦では信濃高遠城在番を務めている。一説に、麾下の軍装は黒揃えであったと伝わる。天正元年(1573年)の三河国長篠・作手侵攻にも参加している[12]。同年4月12日には信玄が死去。
なお、武田家における信豊の立場の基盤として信豊が東信濃支配の拠点となっていた信濃小諸城(長野県小諸市)主であるとする説が支配的であったが、小諸領支配を示す文書は見られない。また、『信長公記』『甲乱記』『軍鑑』ではいずれも小諸城主は下曽根氏としており、武田氏滅亡に際して信豊が小諸城に逃れたことを記している。
勝頼期には、天正3年(1575年)、三河黒瀬(現在の愛知県新城市作手黒瀬)にて、作手の国人である奥平定能・貞昌父子の動向を監視したり、長篠の戦いでは左翼4番手として出陣したものの、武田方の劣勢を察して早々に退却をしている。このことは、勝頼以上に譜代家老の春日虎綱(高坂昌信)の怒りを買い、6月半ばに昌信が勝頼に提出した意見書5箇条の内の1つに、「典厩(武田信豊)に穴山(信豊と同様に戦線離脱した穴山信君)の腹を切らせるよう仰せられ、某に典厩に切腹を申し付けるよう仰せ下さい」と意見した程であったという。
天正4年(1576年)には安芸国の毛利輝元のもとへ庇護されていた将軍・足利義昭が信長妥当のため武田・北条・上杉三者の和睦を周旋すると、信豊は武田側の取次を務めている[13]。天正6年、越後で上杉謙信の死後に上杉景虎・上杉景勝の間で家督を巡る御館の乱が起こると、勝頼は甲相同盟に基づき景虎支援を目的に出兵する。勝頼は景勝側から和睦を提示されるとこれに応じ、景虎・景勝間の和睦を調停した。信豊は先発隊として信越国境の海津城(長野県長野市松城町)、春日虎綱とともに景勝との和睦交渉に携わる[14]。のちに景虎・景勝間では乱が再発し、甲相同盟は破綻する。景勝が乱を制したため勝頼は景勝との同盟を強化し甲越同盟に至り、信豊は取次役を務めている。また、勝頼は対北条氏のため常陸国の佐竹氏とも同盟を結び(甲佐同盟)、信豊は佐竹氏との同盟にも携わっている[15]。
天正8年(1580年)からは「相模守」を称している。『軍鑑』によれば、天正9年(1581年)に勝頼は穴山信君と約束していた信君の嫡男勝千代と次女の婚約を破棄し、信豊の子と婚約させたという[16]。
天正10年(1582年)3月、木曾谷領主木曾義昌が織田信長へ内通して武田氏に反旗を翻した。武田勝頼は信豊を将とする討伐軍を木曾谷へ派遣するが、信豊は織田信忠の援軍を得た木曾によって鳥居峠にて敗北する[17]。『信長公記』『甲乱記』に拠れば、この敗北を契機とした甲州征伐において、信豊は家臣20騎程と共に小諸城へ逃れて再起を図った。しかし城代の下曾根浄喜に叛かれ、二の丸に火を掛けられ嫡男や生母、家臣とともに自害した[18]。享年34。
信豊の首は勝頼・信勝、仁科盛信の首級とともに長谷川宗仁によって京都に輸送され、獄門にかけられた後に妙心寺に葬られた[19]。長野県阿智村にある頭権現(大平神社)の御神体は頭蓋骨で、信豊のものという説もある。
ー 人物 -
『甲乱記』では信豊は従兄の勝頼と同世代で親しく、勝頼期の政権を補佐する立場にいた人物としている。また、『軍鑑』『武田三代軍記』では「武田の副将」との立場を記している。
父・信繁と通称が同じ典厩のため、父は古典厩(こてんきゅう)、信豊は単に典厩または後典厩(ごてんきゅう)と呼ばれている。
以上、Wikiより。