志村光安 (しむら みつやす) | げむおた街道をゆく

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志村 光安(しむら あきやす、生年不詳 - 慶長14年(1609年)/慶長16年(1611年)?)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。最上氏の家臣。通称は伊豆守。名は高治とも。



ー 生涯 -
父・志村光清は最上家譜代の家臣。最上義光に仕える。「性剛にして、口才人を挫き、いかなる強敵も彼の前には降った」という。
慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦で、上杉軍2万が最上領に侵攻してきたとき、光安も長谷堂城の守備を担当した。鮭延秀綱の支援も受け、伏兵などを駆使して直江兼続の軍勢に抵抗し、城を守りきって大きく貢献した。他に狐越街道を撤退する上杉軍の追撃戦や、上杉軍の志駄義秀が籠もる東禅寺城(酒田城)攻撃にも加わり、戦後、亀ヶ崎城と改称した東禅寺城3万石を賜った。また、庄内における寺社の復興(1608年羽黒山五重塔の修造等)にも努めた。
慶長8年(1603年)、酒田に巨大亀が上陸し、これを主君・最上義光に報告した。これを吉兆として東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城と改めたというエピソードが残る。没年は慶長14年(1609年)とも、慶長16年(1611年)[1]ともされる。
光安の死後、子の光惟(光清)が継いだが、元和3年(1617年)最上氏の内紛で、清水義親の意を受けた一栗高春に殺害された。残された一族は、最上氏改易後は山形藩の家老となり、その後江戸に移り、水野忠邦の第一家老などを務め、明治維新後は江戸藩邸(現渋谷区神宮前)に留まった。また他には、最上氏の改易後、東根地方で帰農すると横尾姓を名乗り、代々郡中総代名主を務めた系譜もあるという。


以上、Wikiより。



志村光安