清水康英 (しみず やすひで) | げむおた街道をゆく

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清水 康英(しみず やすひで)は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣で伊豆・下田城城主。属伊豆水軍。もともとの本拠地は伊豆奥郡で加納矢崎城城主。康英の「康」は、北条家第三代当主である北条氏康からの一字書出しとして授与されたものである。



ー 一族 -
父は清水綱吉か?。清水氏は、北条家第3代当主である北条氏康の傅役でもあり、さらに母または祖母は、氏康の乳母であった。このことからも伺えるように、清水氏と北条家は強い関係を築いていたものと思われる。清水氏は、明応初期に作成されたと推定される「伊豆国道者注文」の古文書(天理図書館所蔵)で初めて清水氏の名がみえ、その出自は備中清水氏とも考えられる[1]。
康英の子には、 新七郎(1569年に甲斐武田氏の侵攻を駿河蒲原城で迎え撃ち戦死)(孕石文書)及び太郎左衛門尉(小田原開城後に氏直に同行した後、結城秀康に仕えて1616年に没)の二人がある。康英の後裔の一派は文禄2年(1593年)沼津に移り住み、駿河国駿東郡沼津宿の本陣となり幕末に至るまで名主や年寄などを務め、明治に入ってからは沼津郵便電信局を営んだ。



ー 経歴 -
康英は伊豆衆のひとりで、その中でも随一の実力者であった(『北条氏所領役帳』によれば伊豆衆二十九人衆の筆頭とされ、伊豆衆の中でも知行は最も多い829貫700文余)。また、『小田原旧記』によれば河越城の北条綱成、玉縄城の北条綱高、栗橋城の富永右衛門尉、下田城の清水康英、平井城の多目周防守を五家老とし、指物の色がそれぞれ黄備・赤備・青備・白備・黒備の「五色備」の体制になっていたという。後年、主に戦いにおいては伊豆水軍を率いたという。また、訴訟の裁決や政策立案を携る評定衆も務めており、氏康の参謀であったと思われる。評定衆として、北条家裁許印判状(虎朱印状)も発給しており、その一部が現存している。(清水文書・東京)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、秀吉方の水軍は長宗我部元親勢2500、九鬼嘉隆勢1500、脇坂安治勢1300という大軍であった。伊豆下田城には康英、次子・政勝らが籠もって50日余り防戦したが、同年4月23日に脇坂安治や安国寺恵瓊らと起請文を交わし、ついに降伏、開城した。(高橋文書)その後、康英は河津町の林際寺へ退去し、部下一同に下田籠城の苦労を謝して後日の立証を約束しいったん離別する旨の書状を書き送っている。自らは菩提寺である三養院(現・静岡県賀茂郡河津町川津筏場)へ入って隠栖。天正19年(1591年)に没した。



ー 逸話 -
北条氏直の判物(清水文書・東京)によれば、「豊臣秀吉軍は船働歴然ゆえ下田城を設けたのであり、康英は戦上手であるから一切任すのである。他人の差し出口は不要でる」といった意味の文書が残っている。かなり名声、信頼共に高い武将であったと察せられる。
『関八州古戦録』によれば、黒糸縅の鎧を着、1丈4尺の大旗を背に指し、盤手鴾毛という奥州南部産の駿馬にまたがり、8尺もある樫の棒を振り回して、長柄のほこ先をそろえた敵陣へ割り込み、雑兵らをなぎ倒した武勇が伝わっている。


以上、Wikiより。



清水康英