島津家久 (しまづ いえひさ) | げむおた街道をゆく

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島津 家久(しまづ いえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女。



ー 生涯 -

幼少時
天文6年(1547年)、島津貴久の四男として生まれる。若年の頃より祖父・島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていた。永禄4年(1561年)7月、大隅国の肝付氏との廻坂の合戦で初陣し、まだ15歳ながら敵将・工藤隠岐守を鑓合わせにて討ち取った。

上洛
天正3年(1575年)、島津氏の三州平定の神仏の加護を伊勢神宮などに謝するため上洛した。途中、伊賀市上神戸の和歌山周辺を通り、阿保村で一泊している。4月、家久は連歌師・里村紹巴の弟子・心前の家に宿泊した。京では紹巴を介して公家衆や堺の商人たちと交流した。さらに、居眠りしながら行軍している織田信長の姿を見たり、明智光秀に招待されて坂本城や多聞山城で接待を受けている。この時の上洛の顛末は家久自身が『家久君上京日記』という旅日記にまとめている。

沖田畷の戦い
耳川の戦いで豊後国の大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭し、九州の覇権は島津氏、龍造寺氏の二者で争われるようになった。
両者の戦いは、筑後・肥後方面では龍造寺軍が島津軍をしばしば圧倒していたが、肥前西部では、龍造寺氏からの離反を謀る有馬晴信が島津氏に援軍を要請する等、島津氏に有利な状況も生まれていた。
天正12年(1584年)3月、島津軍は有馬氏を救援し龍造寺軍を迎え撃つべく、家久を総大将として島原に向かうことになった。島津軍は有馬晴信の軍と合わせても5,000~8,000であったのに対して、龍造寺軍は18,000~60,000(両軍の人数については史書により諸説あり)という大軍である。しかし家久は、龍造寺軍を沖田畷と呼ばれる狭隘の湿地帯に誘い込み、釣り野伏せと呼ばれる島津得意の戦法で弓鉄砲を効果的に使用して混乱させ、総大将の龍造寺隆信をはじめ、一門・重臣を含む多くの龍造寺勢を討ちとった。(沖田畷の戦い)
この勝利によって、九州において島津氏に単独で対抗できる大名はいなくなった。この際、始めて知行地4,000石を賜り、部屋住みの身分を脱したとされている。九州佐土原城代になり日向国方面の差配を任された。
その後、主戦場は再び筑後国へ移り、肥後国にあった島津勢は北進を狙ったが、隆信の義弟である鍋島直茂らが徹底抗戦の意志を示した(島津が送った隆信の首を突き返した)ため、一旦は諦めて引き上げた。しかし、さらに島津氏の力が増大するに到り、龍造寺氏は自らの勢力圏の温存を図るべく降伏に近い形で島津氏と和議を結んだ。一方で、鍋島直茂は豊臣秀吉と密かに連絡を取っており、天正15年(1587年)には龍造寺・鍋島軍は島津征伐軍の先鋒を務めることとなる。

豊臣との戦い
九州制覇を目指す島津氏は、豊後国の大友氏を攻めようとしていたが、上洛して秀吉に謁見していた大友氏の援軍として天正14年(1586年)、仙石秀久を大将に長宗我部元親・信親父子、十河存保など、総勢6,000余りの豊臣連合軍の先発隊が九州征伐のために上陸した。家久はこれを迎え撃ち、敵味方4,000余りが討死する乱戦となったが、長宗我部信親・十河存保らは討死し、豊臣連合軍は総崩れとなって島津軍が大勝を収めた。(戸次川の戦い)

急死
その後、上方での封土を条件に、島津義久・義弘が降伏する前に4兄弟の中では最も早く豊臣秀長軍と単独講和したが、天正15年(1587年)6月5日、佐土原城で急死する。病死説や豊臣側あるいは島津側による毒殺など、様々な説があるが定かではない。ただ、豊臣・島津双方にとって家久を毒殺する意義が少ないことや、豊臣秀長の側近である福地長通が義弘に宛てた書状(同年5月13日付)に家久が病気であることが記されていることから、一般には病死したものとされている。



ー 逸話 -

祖父・島津忠良は家久を「軍法戦術の妙を得たり」と評している。[2]
ルイス・フロイスは家久を「きわめて優秀なカピタン(武将)[3]」「勇敢な戦士であり老練な主将でもある[4]」と記している。ちなみに一貫して「ナカズカサ(=中務)」と表記している。
教養面は疎かったようで、上洛時に明智光秀に茶を勧められた際、「茶湯の事不案内」のため白湯を所望している。またこの時に催された連歌会にも誘われたが、これも辞退している。(家久君上京日記)
沖田畷の戦いの後、佐土原領3万石を賜ったと勘違いされている事が多いが誤りである。豊臣秀吉による国分朱印状による国割りや、後に成立する佐土原藩(島津以久)が3万石であった事からきていると思われる。このとき島津家の席次は、義久、義弘、薩州家の義虎、歳久の順であり、家久の席次は必ずしも高くはない。家久系として唯一後世に残る直系次男忠仍の子孫達は島津姓を名乗ることを憚っていたようである。
戸次川の戦いの後、干潮のために出船できないでいる長宗我部元親の元へ川上久智を遣わし、「左京亮殿(信親)ヲ討取候事、弓箭之事ユヘ不及是非次第ニ候」と、信親を討った事は戦場の習いで已むを得なかったとの旨を伝えさせ、満潮まで緩々と陣を解くよう申し述べさせている。[5]
家久は正室の産んだ子ではなく、妾腹に生まれた子であり、またその母は高貴な身分ではなかった。兄弟四人で連れ立って、鹿児島吉野で馬追を行った時のこと。馬追が終わり、当歳駒を一緒に見ていたとき、歳久が義久と義弘に向かって「こうして様々な馬を見ておりますと、馬の毛色は大体が母馬に似ております、人間も同じでしょうね」と言った。義久は歳久の言わんとすることを察し、「母に似ることもあるだろうが、一概にそうとも言い切れない。父馬に似る馬もあるし、人間も同じようなものとは言っても、人間は獣ではないのだから、心の徳というものがある。学問をして徳を磨けば、不肖の父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と言った。それからというもの家久は、昼夜学問と武芸にのみ心を砕き、片時も無為に日々を過ごすことはなく、数年の内に文武の芸は大いに優れ、知力の深いこと計りがたいほどとなり、四兄弟の能力の優劣もなくなった。[6]


以上、Wikiより。



島津家久