葛西晴信 (かさい はるのぶ) | げむおた街道をゆく

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葛西 晴信(かさい はるのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。第15代当主葛西晴胤の子[1]。第16代当主葛西親信の弟[注釈 1]で養子。葛西氏の第17代当主。



ー 略歴 -
伊達氏と手を結んで元亀2年(1571年)と天正元年(1573年)に大崎義隆と戦った[1]。外交的にも永禄12年(1569年)に上洛して時の天下人・織田信長に謁見して[1]所領を安堵されている。しかし大崎氏との抗争に明け暮れた晴信は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣できず、改易されている。これにより、葛西氏は滅亡したのである。
晴信の死には諸説があり詳しくわかっていない。一説には、改易後に諸国を流浪して、最終的に加賀で慶長2年(1597年)に64歳で死去したという説がある[1]。また、『葛西真記録』によれば、秀吉の奥州平定軍に対して徹底抗戦したが衆寡敵せず、寺池城もしくは佐沼城で戦死したという説もある[1]。



ー 人物 -
晴信は一般的に暗愚な武将といわれているが、大崎氏との戦いでは常に勝利しており、外交的にも織田信長と謁見し、所領は30万石という広大な支配領を築き上げたところを見ても、戦国武将としてそれなりの器量は有していたと思われる。しかし、晴信をはじめとする歴代の当主が一族内の内紛や大崎氏との抗争に明け暮れ、それが葛西氏の衰退を招いたことも事実であり、いわばこの抗争が、葛西氏滅亡の遠因となったのである。


以上、Wikiより。



葛西晴信