織田信秀 (おだ のぶひで) | げむおた街道をゆく

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織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将、大名。織田信長の父である。また、娘であるお市の方の血統は今上天皇へと続いている。



ー 生涯 -

家督相続
永正7年(1510年)、尾張国南西部を支配する海東郡・中島郡に跨る勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)の城主・織田信定の長男として生まれる。信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣たる清洲三奉行の一人であった。
信秀は父・信定の生前である大永7年(1527年)に家督を譲られて当主となる。家督相続からまもなく、天文元年(1532年)頃、主家の織田達勝と争ったが、のちに和解している。[2]

勢力拡大
天文元年(1532年)、今川氏豊の居城とされる那古野城(名古屋市中区、のちの名古屋城)を奪い、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した(ただし那古野城奪取については天文7年(1538年)説もある)。
その後も勢力の拡大にともなって天文8年(1539年)に古渡城(名古屋市中区)、天文17年(1548年)に末森城(名古屋市千種区)を築いて居城を移している。
成り上がり者として内外に敵の多い中、国内を治め、京都に上洛したときは朝廷にも献金して従五位下に叙位され、備後守に任官された。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上したことにより、同年、9月、その礼として朝廷より、三河守に任じられた。
こうして信秀は、主家の大和守家への臣従関係は保ちながらも、主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、国内の他勢力を圧倒する地位を築いていった。しかし信秀は晩年まで守護代家臣に甘んじ、尾張国全域を支配することはできなかった。実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤、松平、今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君であった守護代家、守護家の併呑は信長の代を待つことになる。
対外においては天文4年(1535年)に松平清康が森山崩れで不慮の死を遂げると、混乱する松平氏の隙を突いて三河に侵攻し、天文9年(1540年)には安祥城を攻略し、支配下に置いた。しかしこのため、松平氏は今川氏の従属下に入り、今度は今川義元と敵対することとなる。天文11年(1542年)には第1次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利し、西三河の権益を保持した。
この頃、美濃では国主の土岐頼芸が斎藤道三によって追放されたが、信秀は頼芸を保護して斎藤道三とも戦い、一時は大垣城を奪った。しかし天文13年(1544年)には斎藤氏の援軍として越前から来た朝倉宗滴に敗れる。

限界と最期
さらに天文16年(1547年)には道三の居城・稲葉山城を攻撃したが、道三の反撃を受けて敗れた(加納口の戦い、ただし時期には異説あり)。翌天文17年(1548年)には犬山城主・織田信清(弟信康の子で信秀の甥)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させた。同年、織田達勝の跡を継いだ信友が古渡城を攻めたことにより、再び大和守家とも争うが、翌年には和解している。また同年、第2次小豆坂の戦いで今川氏に敗れ、続いて発生した第三次安城合戦で安祥城を失うなど[3]、次第に今川・斎藤・そして国内の敵などに包囲されて苦しめられるようになった。そこで天文18年(1549年)、子の信長と斎藤道三の娘・濃姫を政略結婚させることで斎藤家とは和睦したものの、今川氏との対立はなおも続き苦しめられつづける中、天文20年(1551年)3月3日、流行病により末森城で急死した。享年42。ただし、没年には天文18年(1549年)説や天文21年(1552年)説もあり、生年も永正5年(1508年)説、永正8年(1511年)説など様々な要素があって定かではない。家督は嫡男の信長が継いだ[4]。



ー 人物・逸話 -

勝幡城に近い商業都市津島や熱田を支配し、経済力を蓄えるなど、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、それによって商業の活性化を図るなどの先見性を持っていた。
信長の父として有名だが、信秀自らも智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
素行の悪かった信長を、親族も含めた周囲の声を無視して一貫して自らの後継者に据え続けており、親子の間には信頼関係があったと思われる。
那古野城の奪取にあたっては、信秀はあらかじめ城主で尾張守護の斯波義統の妹婿にあたる今川氏豊に友好的に接近、連歌などの友人となってこれを油断させた後、奇策をもって攻略したと伝えられており、信秀の武将としての性格を示す有名な逸話になっている。
天文12年には、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上するなど、朝廷との友好関係を重視していた。単純比較はできないものの、17年後に毛利元就が正親町天皇の即位の際に2000貫文を寄進しており、信秀の代からすでに織田家の財力がかなりのものだったことがうかがえる。前述の功績も合わせて、後の信長飛躍の土台を作った。
天文の兵火焼かれた禅居庵摩利支天堂を再建(1547年)
艶福家であり、多くの側室と二十人以上の息子・娘がいた。


以上、Wikiより。



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