織田信長 (おだ のぶなが)・後編 | げむおた街道をゆく

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織田信長・前編からの続き。

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ー 人物 -

人柄
同時代人の証言から、その人物像や当時の評価がうかがえる。
宣教師ルイス・フロイスは次のように記述している。「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲ルタールをとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。」[29]「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な司令官カピタンとして、大いなる賢明さをもって天下テンカを統治した者であったことは否定し得ない[30]」「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった[31]」「信長はほとんど全ての人を『貴様』と呼んだ[32]」「王[注 39](信長)は例のごとく、親切だ」「信長は生来純粋で、説得することが容易である」「その葬儀は、信長という非常に王者の風格をもつ、優れた人物に相応しいものとなった」[33]
尾張の僧侶・天沢は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を橋本一巴、弓を市川大介、兵法を平田三位に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆松井友閑をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます[注 11]。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた(信長公記・首巻)。
「(信長は)一段と礼儀を尽くす人だった」多聞院英俊の言[34]
「吾々は徒党に加わらず、その上代々の国主に忠節を尽くしてきた(刃向かったり土地の押領などしなかった)ので、その振る舞いは誠に立派であるとして、信長公からお礼を言われた。信長公のご清意に励まされ、吾々は精進に励んだ。この時世に巡り会えたのは幸運である」『朝倉始末記』内『朝倉記』部分著者の言[注 40]
「(茶器の)家宝を上様(信長)に召し上げられていたが、その理由を、上様は(使者を通して)一段と気を配ってお伝えになった。(私の素行に問題があったので)やがて返すべきと考えつつ、世間への戒めが必要なので延引しているとのことだった。そして家宝が返されたのは父の命日だった。この偶然の一致は(上様の配慮だろうか)ありがたいことだ」津田宗及の言[35]
「我らは子々孫々まで、信長の尊霊拝むものなり」吉田兼見の言[36]
「(信長の死は)嘆いても名残の尽きない涙である なおも慕われる亡き面影(七回忌の今)睦まじかった昔の人に向かいあう 虚しき空の紫の雲・・・」近衛前久の言[注 41]
天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利氏の家臣・安国寺恵瓊は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。
浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨を薄濃(はくだみ。漆でかためて金箔などを張る事とされる)にし、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の肴として披露した(信長公記)。これは後世、髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話になっているが、こちらは一次史料にはない(「フロイス日本史」によれば信長は酒を好まなかったという)[注 42]。
弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児(津田信澄)の養育を手配し、元服後は一門衆として重用している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子(織田勝長)までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃して報復する(比叡山焼き討ち、長島一向一揆殲滅)、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない(武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である)など、身内に手厚いともされる。
信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。
信長は自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都公家の日記などから)。
長女の徳姫(松平信康の妻)を除くと、生前に縁組させた冬姫らの娘達は個人的にも親交のある家臣である前田家、丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、女性に関する記録が少なかった当時にあって、織田家関連の女性たちの中には本名が正確に記録されている女性が多いため、信長は当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。
自分の妻を尾張に残して岐阜に単身赴任した部下を叱ったり、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁するなど、家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。
『信長公記』によれば、美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年(1575年)6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿二十反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという。信長は、自分に敵対する者に対しては苛烈を極め、家臣に対しても厳格であった一方、このように立場の弱い庶民たちに対しては寛大な一面もあった。
長篠の戦いの時には、身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も愛知県新城市作手の甘泉寺に残っている。信長はこのように、身命をかけて忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。
最大の同盟者である徳川家康に対しては特に気を使っている。佐久間信盛を懲戒するにあたっては、家康が武田信玄に敗北した三方ヶ原の戦いを引き合いに、家臣に戦死者も出さず撤退したことを激しく非難している。また、第一次高天神城の戦いでは武田勝頼率いる武田勢の大軍に包囲された高天神城への増援が間に合わず奪われたが、2人がかりでなければ持ち上げる事も出来ない程の量の黄金を詰めた革袋を二つも家康に贈与して謝意を示している。天正10年、武田氏滅亡後に信長は東海道から帰京しているが、その際に家康から富士見物や大井川の舟橋など巨費を投じた盛大な接待を受けており、本能寺の変直前の家康上洛の際には、街道の整備や通過地の大名に接待役を命じ、後述のように信長自ら食膳を用意するなど、盛大な接待を行っている。
荒木村重の説得に向かった黒田孝高(官兵衛)が帰還せず、同時期に孝高の主君・小寺政職が離反したことから、孝高も政職に同調して裏切ったものと考え、孝高の息子・松壽丸(後の黒田長政)の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には「官兵衛(孝高)に合わせる顔が無い」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が竹中重治(半兵衛)に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。
『信長公記』などの逸話によると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭を取る際などにはその姿を庶民の前に直接現している。天正9年7月15日のお盆では安土城の敷地全体に明かりを灯し、城下町の住民たちの目を楽しませるといった行動をとっており、「言語道断面白き有様」と記述され、後述の相撲大会の逸話などからも祭り好きであったと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。その中でも特にユニークな逸話として、天正10年の正月に安土城の内部を一般公開し、武士・庶民を問わず大勢の人々を城内に招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客一人につき銭百文ずつ見物料を取り立てたという記録が伝わっている。
重要なことを他人に任せず自身で直接何かを行った逸話が多い。
桶狭間の戦いをはじめ、稲生の戦いでは自ら敵将を討ち取り、長良川の戦いでは殿軍をつとめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立って奮戦している。大名自身が最前線に立って戦うことは異例であった。
自ら刈田を行った。(高屋城の戦い[37])
馬借が荷物の重さで言い争っているのを見て、馬から下りて自分で荷物の重さをチェックした。(本圀寺の変の出発前[38])
客をもてなすために自らの手で食膳や茶皿を運んできた。(ルイス・フロイス[39]やフランシスコ・カブラル[40]、徳川家康と穴山梅雪の一行[41]に対して)
当時武士たちの間で一般的であった衆道も嗜んでおり、男色相手として前田利家については本人の証言が残っている[42]。

苛烈と云われる所業
信長は宗教勢力が世俗の権力と一体化し、宗教としての意義を忘れていた事や僧侶の腐敗ぶりを厳しく批判した。この行為が後世苛烈と評されたが、当時は宗教勢力が自ら軍事力を持ち敵対勢力に対し軍事行動も取っていた時代であり、現に延暦寺も本願寺を焼討ちにしている。信長と同時代の史料では「ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『御湯殿上日記』にある程度で、それほど批判はない。また仏を信仰する事自体は禁止しておらず、武装解除した宗教勢力に対しては宗教としての本分を弁える様になったとして、信徒の信仰の自由を保障している。
赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母の乳首を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる(弁慶など)。
観内という茶坊主に不手際があり、信長が激怒した。観内は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に観内を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀(長谷部国重作)は切れ味の良さから「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという(福岡市博物館蔵、国宝)。
元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の鋸で首を挽かせ、長期間激痛を与え続け処刑した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に[43]、徳川家康も家臣の大賀弥四郎に対して行っており、江戸時代の公事方御定書には極刑の一つとして紹介されている(鋸挽き)。
天正2年(1574年)の長島一向一揆の第三次討伐は、信長の「騙し討ち」と表現される事があるが[44]、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある[45]。
天正9年(1581年)、畿内の高野聖1383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復だったという。また高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動だったともいわれている。
天正6年(1578年)12月13日、尼崎近くの七松で、謀反を起こした荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『信長公記』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。
天正10年(1582年)4月10日、信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは[注 43]、桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したという。また侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、やはり殺されたという。ただし桑実寺の長老に関する記録が信長の死後である本能寺の変以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。この逸話の典拠は『信長公記』だが、そこには信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが「殺した」とは書かれていない。当時「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗(処罰)の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[注 44]。
信長の敵勢力に対する行為の大半は当時の戦国大名の間で行われていたもので、信長だけが行ったわけではない。豊臣秀吉が天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した行為[46]、武田信玄・上杉謙信等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を奴隷として売却すること(ルイス・ソテロ等の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為もあり、戦国時代の道徳や常識の差異を念頭においてその行為を判断する必要がある。

交友関係
上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深く、特に昵近する公家衆もいた。特に近衛前久とは最初は敵対していたにも拘らず、鷹狩りという趣味の一致などと相まって一際仲が良かったようである。
天正3年(1575年)に京都相国寺で今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらった。
戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い。主に森成利(蘭丸)の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』では、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている。

南蛮への関心
南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。
好奇心が強く、まだ鉄砲が一般的でなかった頃から火縄銃の性能を重視し、長じて戦国最強の鉄砲部隊を編成するに至った。長篠の戦いでは3000丁もの鉄砲を用いて武田勝頼の軍に壊滅的な被害を与えたとされている。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、弥助と名付けて側近にした。記録によると、この黒人は身長六尺二分(約182.4cm)の大男で、「十人力」と称されるほどの怪力であったとされ、信長は単なる好奇心だけでなくこの黒人を実戦の役に立つ兵としても重用していたようである。信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは弥助に領地と城を与えて「殿(との、城主)」にするつもりであったが[47]、その計画は本能寺の変により頓挫することとなった。なお、弥助は本能寺の変の際にも信長に同行しており、明智の軍勢を相手に最後まで奮戦したと伝えられる。
イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。信長はローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年(天正13年)であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。ちなみにフロイスはバナナも献上しており、記録に残っている中では信長がバナナを初めて食べた日本人となっている。
南蛮品の中でも興味のない物は受け取らず、フロイスから南蛮の目覚まし時計を献上された際には、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。

文化への関心
当時の多くの戦国大名と同じく囲碁を愛好しており、囲碁の「名人」という言葉は信長発祥と言われている。(本因坊算砂の項を参照)
幸若舞『敦盛』の「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。」という一節をよく舞った[注 11]。
大の相撲好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』から散見される。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという[注 45]。信長にとって相撲大会は単なる娯楽ではなく、有能な人材を外部から登用するための選抜試験も兼ねていたようである。
和歌の教養もあり、上京した際に連歌師の里村紹巴から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させたという(『信長記』)。
茶の湯にも大きな関心を示した。これについては、「堺の商人との交渉を有利にするため茶の湯を利用していた」「茶器を家臣への恩賞として利用する目的があった」などといった説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている(信長公記より)ことから、もともと信長自身が純粋に茶の湯を楽しんでいたようである。
三好義継が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた[48]。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったとは考え難い。単なる嗜好の問題の可能性もある。


以上、Wikiより。



織田信長