上杉定実 (うえすぎ さだざね) | げむおた街道をゆく

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上杉 定実(うえすぎ さだざね)は、日本の戦国時代の守護大名。越後守護上杉氏の当主。上杉房能の養子とされるが確証はない。上杉謙信(初名:長尾景虎)は義理の甥にあたる。



ー 生涯 -
定実自身は上条上杉家出身であったが、文亀3年(1503年)に房能の娘を正室に迎えて、その婿となる。永正4年(1507年)8月、守護代の長尾為景に担がれて房能を倒すと、翌年に守護(実質的には為景の傀儡)となった。その際に長尾為景の妹を娶ったとされ(正室であった房能息女はこの時点で死去していた可能性が高い)、宇佐美房忠(ふさただ、定満の父)から名刀「宇佐美貞光」を献上される。
しかし、関東管領上杉顕定(房能の実兄)の侵攻により、永正6年(1509年)に越中・佐渡へ敗走する。翌永正7年(1510年)、越後の諸将を掌握できていない顕定軍の内情を見て、為景と共に佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し、長森原の戦いで顕定を敗死させた。永正10年(1513年)、為景の傀儡であることに不満を抱いて、守護家家臣筋の宇佐美房忠、定満父子や実家上条氏の上条定憲(弟、あるいは甥)、揚北衆の諸氏の勢力などを糾合して春日山城を占拠して断続的に抵抗を続けたが失敗し、一時幽閉されるなど権威はますます失墜した。
その後、上条定憲らが再度反為景勢力を結集したため、為景は隠居に追い込まれたが、その後も定実が実権を握ることはできなかったらしい。為景の跡を継いだ長尾晴景は、為景と比べると求心力に欠けたため、定実の権力は一応の回復を見せた。
定実には男子がいなかったため、為景の没後、縁戚(定実の甥)である陸奥の大名伊達稙宗の子・時宗丸(のち偏諱によって実元と名乗る)との養子縁組を中条藤資(実元の母は藤資の妹)らと推進し、復権を図ったものの、越後北部や出羽での上杉傘下の国人領主同士の対立を招いた。更に、伊達氏における内訌(天文の乱)を引き起こす結果となり、縁組は中止され、定実のもくろみは頓挫した。
天文年間末期には黒田秀忠の反乱も起きて越後は動揺するが、これを晴景の弟・長尾景虎(後の上杉謙信)が鎮圧したことで、周囲はおろか定実自身も景虎に一目置くことになった。
天文17年(1548年)、晴景と景虎の争いが起こるとこれを仲介し、景虎の擁立に尽力した。晩年は出家して玄清(げんせい)と名乗り、天文19年(1550年)病没。定実の死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、13代将軍足利義輝の命令で景虎が越後守護を代行した。


以上、Wikiより。



上杉定実