上杉謙信 (うえすぎ けんしん)・後編 | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

前編からの続きです。

→ 上杉謙信・前編




ー 逸話 -

性格・行動
甥の喜平次(後に養子となる景勝)に宛てて身の上を案じる手紙を頻繁に送るなど、子煩悩な一面をみせている。特に関東在陣中の永禄5年(1562年)2月13日には、当時8歳だった喜平次に習字の手本として自ら『伊呂波尽手本』(いろは文字)を書いて送っている。手紙の本文も叔父らしい情け深いものだった[26][要高次出典]。
主君である謙信に対して2度も謀反を起こした家臣の北条高広を2度とも許し、帰参させている。また謙信に対し幾度も反乱を起こした佐野昌綱に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。同様に、家臣である本庄繁長が挙兵した際も、反乱を鎮圧した後に繁長の帰参を許している。
一方で規律を守るため厳しい処置を行ったという伝承も存在した。謙信の重臣である柿崎景家の死について、『景勝公一代略記』では景家と織田信長が内通しているとの噂を信じた謙信によって死罪に処されたものとしている。しかし近年ではこの説は疑問視されており、景家の最期は「病死、伏誅、手打ち、攻殺、逃亡」の5説があるという[27]。また、信長と内通した末に誅殺されたのは景家の嫡子晴家だったとする説もある[28]。重臣・長尾政景の死についても宇佐美定満に命じて謀殺したとする伝えがあるが[29]、信憑性に乏しい資料であるため近年では創作された可能性が高い説であるとされている。また、『謙信公御年譜』では、宇佐美定満と野尻池で舟遊びの最中、暑さを凌ぐために遊泳に興じたところ、酒に酔っていたこともあり溺死したと記している。謀殺説は謙信の厳格な一面を伝えているが、従来より史料批判とともにその信憑性が問われている[注 13]。他にも北条軍に対する陣頭指揮を怠った厩橋城の城代・長尾謙忠を、謀反の疑い有りとして誅殺している[注 14]。
永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では忍城城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたと書かれている書物がある。諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまったという。原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で、武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であったとも言われている。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなったとの説もある[31][要高次出典])。ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど高くはなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間ではこの説を事実と認めていない[32]。関東諸将の謙信への反感や離反の理由としても同様である。

部下への配慮
天正元年(1573年)8月に越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている。与次は間もなく許されて、急死した中条景資の婿養子となって中条景泰と改名した。

出家騒動
家臣団の内部抗争・国人層の離反・信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に嫌気がさした謙信(当時は長尾景虎)は毘沙門天堂に篭ることが多くなり、次第に信仰の世界に入っていくようになった。弘治2年(1556年)3月23日、家臣団に出家の意向を伝え、6月28日には春日山城を出奔、高野山を目指した。しかし8月17日、大和国の葛城山山麓、葛上郡吐田郷村で家臣が追いつき必死に懇願した結果、謙信は出家を思いとどまった。謙信の奇矯な性格をよく表している逸話とされているが、家臣団が謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出したことで騒動は治まっていることから、人心掌握を目的とした計画的な行動だったともいわれている。家臣団のほとんどは引き続き謙信に臣従したが、大熊朝秀はこれを機に反旗を翻して敗れ、信玄の許に逃れている。

宿敵・武田信玄
信玄との生涯に亘る因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがある。
信玄は永禄10年(1567年)に同盟国の駿河今川氏真との関係が悪化し塩留を受けているが(「萩原芦沢文書」)、武田氏の領国甲斐と信濃は内陸のため、塩が採れない。これを見越した氏真の行動であった)、氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、信玄に塩を送ったという(この逸話に関しては信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えられているが、少なくとも謙信が今川に同調して塩止めを行ったという記録はない[注 15]。
この時、感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。『日本外史』では信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したという。『関八州古戦録』でも同様の話を伝えられている。また、『松隣夜話』では信玄の死後3日間城下の音楽を禁止した。理由には「信玄を敬うというより武道の神へ礼を行なうため」と挙げている。「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。一方で上記の逸話は後世の創作の可能性もあり、謙信は信玄をかなり嫌っていたとも伝えられている。信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするのは謙信に言わせるところの道徳観に反しており、謙信は信玄の行いに激怒したという。信玄との利益を度外視した数々の闘争は、謙信が純粋に信玄を嫌っていたことが原因だという説もある。

唐沢山城の逸話
北条氏政により栃木城(唐沢山城)が攻囲された際、8千の兵を率い救援に向かった謙信は、自らが物見をし城主佐野昌綱の危急を感知した。謙信は「ここまで来て昌綱を死なせてしまっては後詰としての名折れだ、ここは運を天にまかせ、自分が敵の陣を駆け抜けて城に入り力を貸そう」と言い、甲冑を着けずに黒い木綿の道服と白綾の鉢巻のみを身に付け、愛用の十文字槍を持ち、またいずれも白布の鉢巻をさせた馬廻や近習などと、主従合わせ数十騎(諸説あり)ばかりで北条勢3万5千の敵中に突入した。敵方はただあぜんとして見つめ、襲えば何か奇計を用いて報いられると思い誰も攻めかからなかったため、作戦のままに謙信は入城したという[33]。これを見聞きした北条方の将兵は謙信をして「夜叉羅刹とは是なるべし」と大いに恐れたという[34][35][注 16]。そして翌朝、謙信は佐野昌綱以下唐沢山籠城勢と供に攻囲の北条勢に攻め掛かり、自ら槍を取って奮戦、またそれに呼応して謙信が率いて来た越後勢(攻囲する北条勢の外側に在陣)も北条勢を攻撃、北条勢は約1千余りの死傷者を出して唐沢山包囲から撤退した。[要高次出典]

肖像画
死去する1か月前の2月、謙信は京都から画家を呼び寄せて自らの肖像画と後姿を描かせた。肖像画は現在でもよく知られている謙信像だが、後姿はなんと盃を描かせたという。このときのことを謙信は、「この盃すなわち我が後影なり」と語ったとされる。[36]
謙信には現存する同時代の肖像画は存在しない。現在流布しているものは、かつて高野山無量光院が所蔵していた謙信の晩年期を描いた図像をもとにしているが、1888年(明治21年)高野山の大火で焼失した。江戸時代には信玄はじめ他の戦国諸大名と同様に軍記物による影響を受け、軍陣武者像や法体武将像、仏画風僧侶像など多様な謙信のイメージが確立する。[36]
現在、模写を含めて28点の謙信像が確認されている[36]。

その他の逸話
第4次川中島の戦いの直前、10万を超える東国の大連合軍を率いて一気に小田原城などに攻め込み北条氏を滅亡寸前まで追い詰めたが、隙をついて武田信玄が信濃にて軍事行動を起こした。だが、信玄は上杉氏諸将の不安をあおるために行動を起こしただけで本気で戦をする気はなかった(事実、上杉軍が動きを止めた後すぐに撤退している)。謙信は信玄の意図を見抜いていて作戦続行を主張したが、肝心の関東諸将が長期出兵を維持できず一部が無断で陣を引き払うなどしたため、結局は撤退するしかなかった。
足利将軍家を守るために三好・松永討伐を画策していた。
関東管領職という室町幕府の役職を全うし、多くの利益を期待できない関東出陣を行う。また、数々の戦いの多くが、村上義清、小笠原長時、上杉憲政らの旧領復権のための戦いであった。
生前に前もって後継者を景勝と定めていたようであるが、不徹底であったため謙信の死後、御館の乱勃発の引き金となった。これは上杉家にとって大きな痛手となり、景勝の代での衰退を辿る要因となった。謙信時代に獲得した北国(加賀・能登・越中)の大部分は、後に柴田勝家によって奪われる。
関東出兵時に人身売買を行った記録がある。上杉軍が小田城を攻略した際、捕虜にされた人たちが謙信の指図で売買されたとされる[37][要高次出典]。
明治41年(1908年)9月7日には勤皇を評価され、従二位の贈位を受けたほか、上杉神社は別格官幣社に列せられている[38]。


以上、Wikiより。



上杉謙信