荒木氏綱 (あらき うじつな) | げむおた街道をゆく

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荒木 氏綱(あらき うじつな、生没年未詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。波多野氏の家臣。丹波国多紀郡を支配した細工所城主である。父は荒木氏義(うじよし)[1]。子に荒木氏清(うじきよ)、荒木高兼(たかかね)がいる。通称、山城守。



ー 生涯 -
丹波国に影響力のあった波多野氏の家臣として仕えた。豪勇の武将として知られ、織田氏の重臣・明智光秀が丹波国に攻め込んできたときにも、織田軍を何度も撃退している。しかし天正7年(1579年)に波多野秀治が織田軍に捕らえられて処刑されると明智光秀に降伏した。その際に光秀は氏綱の武勇を認めて家臣として仕えるように請われたが、自らは病身を理由に拒絶し、代わりに嫡男の荒木氏清(本能寺の変で明智勢に属して戦死)を出仕させている。
死亡時期については、天正10年(1582年)の本能寺の変に際し、子らと共に明智勢に属し瀬田で息子らと共に戦死したとする説(武家事紀)や、明智秀満の計らいで坂本城に籠城していたが脱出したという説(新撰豊臣実録)など、1582年以降も生存していた可能性もあるが、正確な没年齢は不詳である(息子・氏清との混同の可能性もある)。


以上、Wikiより。



荒木氏綱