雨森 清貞(あめのもり きよさだ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏の家臣。通称である弥兵衛の名で知られる。北近江伊香郡雨森城城主。
ー 生涯 -
浅井久政の代から浅井氏に仕え、奏者として国政に参与し、各地の合戦で活躍していたようだが、清貞に関する資料が少なく詳しい事績はよくわかっていない。また、この清貞の名も確定的なものではなく、本当に「清貞」と名乗っていたかは不明である。海北綱親・赤尾清綱・雨森清貞の三将の頭文字を取って「海赤雨の三将」と総称された。
雨森氏の事績に関しては、1570年(元亀元年)の姉川の戦いにおいて、雨森一族の雨森清良がこの戦いで討死すると、生き残った弟・清次が家督を継承した。1573年(天正元年)の小谷城の戦いで主家・浅井氏が滅亡すると、織田信長に降った阿閉貞征に属したが、1582年(天正10年)の山崎の戦いで阿閉氏が滅びると清次は渡岸寺村(現在の滋賀県長浜市)に蟄居した。清次の子・雨森清広はその後松江藩に仕えた。
雨森氏の末裔に江戸時代の儒学者雨森芳洲がいる。
以上、Wikiより。