足利義晴 (あしかが よしはる) | げむおた街道をゆく

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足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪[3]。



ー 生涯 -

将軍就任
西国最大の大名・大内義興に擁された前将軍足利義稙が上洛した煽りを受け、父の義澄は将軍職を解任され近江の六角高頼を頼って落ち延びていた。その最中の永正8年(1511年)3月5日に、義澄の長男[4]として、亀王丸は近江朽木で生まれた。しかし同年8月14日、父は帰洛を果たせずに朽木で死去している。永正10年(1513年)2月14日には義稙陣営と義澄陣営の和睦により、義稙の将軍職が確定した事で、永正11年(1514年)に、亀王丸は播磨守護・赤松義村の庇護下で養育された。ところが犬猿の仲である備前守護代・浦上村宗への反攻を目論む義村によって、名目上の旗頭に担ぎ出されてしまったばかりか、あろうことか永正18年(1521年)1月には敗戦。この敗戦の責により義村が強勢隠居へ追い込まれたせいで、亀王丸の身柄は浦上氏に渡ってしまった。
永正18年(1521年)3月7日、管領・細川高国と対立した義稙が京都を出奔したことで、同月22日に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったために高国が警固の職務を行った。これによって天皇の信任を失った義稙の放逐を決意した高国によって、友誼を通じる浦上村宗の元にいる亀王丸は代わりの将軍として招かれる事ことになる。7月6日の上洛では、高国の歓待を受けると、8月29日には内裏へ代始の参賀を行った。高国の判断を受け入れた朝廷からは、11月25日に右馬頭任ぜられると、12月24日に亀王丸の元服が行われ義晴と以後名乗る。翌25日に義晴は第12代将軍に補任された[5]。

近江幕府(桑実寺など)
大永6年(1526年)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川晴元は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。さらに元盛を殺したことで元盛の2人の兄波多野稙通や柳本賢治らが高国から離反し、大永7年(1527年)に桂川原の戦いで高国が破れると、実権を掌握した阿波の国人・三好元長や細川晴元らが入京。義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。
享禄元年(1528年)には朽木稙綱を頼って朽木(興聖寺)に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。しかし享禄4年(1531年)、高国は中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害する。
戦後、今度は晴元と元長が対立、天文元年(1532年)に元長が晴元と手を組んだ一向一揆によって討たれた後(享禄・天文の乱)、京都より近江の観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移す。それは朽木の時とは違い、奉公衆奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。
天文3年(1534年)中には六角定頼・義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。しかし、その後も晴元と対立して敗れた後、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541年)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542年)には京都へ帰還。天文12年(1543年)には近江に再び逃れるなどしている。

将軍職譲渡と最期
天文15年(1546年)夏、義晴は細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らと通じて晴元を排斥しようと画策した。義晴は京都郊外の東山慈照寺(銀閣寺)に入り、遊佐・氏綱の両名は軍を率いて各地で晴元方を破っていった。しかし晴元の重臣・三好長慶の弟である三好実休や安宅冬康(鴨冬)らが四国から軍勢を率いて渡海し上洛すると一気に形勢は不利になり、11月に北白川の瓜生山城に入城したものの晴元と対立して敗れ(舎利寺の戦い)、近江坂本に避難した[6]。この時の12月19日に嫡男菊童丸を元服させて「義藤」(後に義輝と改名、以降「義輝」と記載)と名乗らせ、翌20日には義輝に将軍職を譲った[7]。以後は大御所として幼少の義輝の後見人となり、義輝と共に慈照寺に帰った。
天文16年(1547年)3月29日、瓜生山城に入って氏綱になおも味方することを表明する[8]。しかし義晴方だった六角定頼が離反して晴元に味方し、摂津でも義晴方の薬師寺元房ら諸将が晴元に降伏したため[9]、義晴は7月19日に城を焼いて近江坂本に逃走した[10]。その後、晴元と和睦して義輝と共に閏7月1日に京都に戻った[11]。
天文18年(1549年)には晴元と三好長慶が三好政長の処遇をめぐって対立した。この際、義晴は晴元に協力したため、6月に政長が戦死して晴元が敗れると(江口の戦い)、義晴は義輝や晴元と共に近江朽木谷に逃れた。
義晴は京都を奪回するため、10月18日に慈照寺の裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始した。しかしこの頃から病がちになり、天文19年(1550年)3月7日には坂本から穴太(現滋賀県大津市穴太)に移動したが、病が重くなって動けなくなった。そして5月4日、穴太にて死去した。享年40(満39歳没)。死因は悪性の水腫だったという[12]。



ー 人物 -

将軍としては、側近集団を内談衆として再編成して政権中枢に置くことで自己の親裁権の強化を図り、足利義満以来続けてきた日野家との婚姻関係に代わって近衛家出身の正室を迎えて朝廷との関係強化を図るなど、将軍権威の回復に努めたが、細川氏の内紛をきっかけにした大規模な争乱によって挫折することになった。ただし、将軍と内談衆の合議による幕政運営はある程度成功し、幕政における役割を失った管領は儀礼的な役職へと低下していくことになった(幕府内及び畿内有数の実力者であった細川京兆家の立場の低下を意味するものでないことに注意)。
「義晴」の名前を定める勘文を作成したのは東坊城和長であるが、実際の提出段階で管領で義晴の烏帽子親になる予定の細川高国の異論があり和長がこれを受け入れたところ、和長が偏諱とするのには良くない(義晴から偏諱を受けた公家や大名は「晴〇」という不吉な諱になり、偏諱を受けたみんなが迷惑する)と考える「義晴」に決定してしまった[13]。このために「義晴」の名前を実際に考えたのは高国で、和長への異論も自分の案である「義晴」を候補に入れるようにとの要求であったとみられる[14]。
生涯に幾度も都を落ち延びた義晴だが、将軍御内書を近国の守護・国人に出すなど巧みな外交戦略を用い、対立将軍候補(義維)の入京を許さなかった。このため義稙(明応2年、大永元年更迭)や義澄(永正5年更迭)のように将軍を廃されることなく、一貫して将軍職を保持し続けることに成功した。
戦国期の室町将軍であったため合戦に出陣することも多かった。また城郭の築城や大規模改修をすることも多く、特に如意ヶ嶽に築いた中尾城は威容を誇る「名城」として名高く、普及し始めたばかりの鉄砲対策のため、城の防壁に石や砂利を敷き詰めるよう義晴自ら指示したといわれる(『万松院殿穴太記』)。
元気なうちに将軍職を自分の息子に譲ったのは、亀童丸(義輝)が自分が将軍となった11歳になったことや自分が生きているうちに息子の地位を安定させる希望があったとされる[15]。
中尾城完成時には義晴は重病となっており、既に一歩も進めない様態であった。それでも義晴は果汁の粥をすすりながら進軍し、その最期の時まで京都奪還への執念を捨てることは無かったとされる(『万松院殿穴太記』)。
義晴の葬儀はかなり簡素なものだったという[16]。


以上、Wikiより。



足利義晴