時は大正。旧制第一高等学校の時代に、新渡戸校長の言動に感化され、熱狂的な新渡戸信者となった人たちがたくさんいました。
その一人が矢内原忠雄です。矢内原忠雄は新渡戸校長のススメで内村鑑三の弟子になります。無教会主義のクリスチャンとして思想と信仰心を深めていきました。矢内原は新渡戸さんがジュネーブへ行ってしまった後、東大の新渡戸講座を引き継ぎました。
戦時中、矢内原忠雄は、国家の存在意義は正義を実現することだと言い、「日本なんか滅びろ」と発言しました。結局、教授職を辞任に追い込まれました。
かなり強いハートを持っていた矢内原忠雄。新渡戸稲造さんの武士道の翻訳を岩波茂雄に依頼され、昭和13年に岩波文庫から出版されます。今も読み継がれる格調高い翻訳文です。
戦後、東京大学に復職し、総長となります。矢内原忠雄は、いざ戦争が始まると取り下げてしまうような相対的平和論を批判しました。
たとえ他国が日本を攻めようとも、戦争放棄、戦力不保持を貫くという絶対的平和論を真剣に説きました。国際平和の実現を国の根幹理念とする国が滅びるわけがない。たとえ他国に攻められて消え去ったとしても、国際平和という国家の理想に殉じた国は永遠の生命を得るのだと。
宗教心ぬきには憲法改正も語れないのだと思います。
そんな矢内原忠雄の息子、伊作(イサク)は、旧約聖書にたるアブラハムの息子イサクから取ってつけられました。神に生贄として捧げられる男です。
忠雄がつけた名前となると大真面目ですよね。
その伊作が、スイスと交わってくるのです。
スイスで一番高額な紙幣100スイスフランのお札の肖像。彫刻家、アルベルト・ジャコメッティ。
ジャコメッティがニューヨークで活動していた1960年代、彼の作品のモデルを務めていたのが哲学者の矢内原伊作です。
そして、ジャコメッティのアトリエを画家バルテュスが訪ねたことがきっかけで、伊作とバルテュスは友人となりました。
1964年にバルテュスが初来日した際に、矢内原伊作を訪ね、伊作の紹介で三島由紀夫に会っています。バルテュスは三島を厳しく批評しながらも生き方、死に方を含めて評価していました。
バルテュス、三島由紀夫の出会いのすぐ後に、節子さんがバルテュスの案内役として京都を旅し、バルテュスに見染められることになります。
時代は流れ、バルテュスも伊作もこの世を去り、バルテュスが暮らしたスイスの田舎には、節子さん家族が暮らしつづけています。
人は出会うために生まれてきた。きっと。