それではいよいよ本題に入ります。記憶が断片的なところが多いのでどこまでストーリーになるかは分かりませんが生い立ちから書き進めます。あと完全なノンフィクションにはならないのでご了承下さい。


私は昭和48年10月に神戸市生田区(現中央区)の病院で生まれた。


今回は全て親などから聞いた話に基づいて構成されます。


小さい時は結構天真爛漫な子供だったらしい。親はあの時抑えすぎたからおとなしくなってしまったのかなと言うが今から振り返ると結構自閉傾向が強かったことが伺える。


私が物心付いた時はとある会社の社宅の5階に住んでいた。2歳年上の兄がいたので私は次男坊だ。


親の話によると小さい時に1番手がかかったのが私だったらしい。自分の思い通りに行かないとすぐに癇癪を起こして泣きわめいていたらしいので大変だったらしい。


ある日私は自分の思い通りにならなくて(何が原因だったかは覚えていない)癇癪を起こして社宅の通路で大声で泣きながら座り込んだ。私は梃子でも動かないつもりで座り込んだが親は「いい子だからおいで」とか甘やかしたり無理やり連れて行ったりしようともせず(ある程度はしたかもしれないけど)、じっと黙って私が疲れるまでそばにいたそうだ。


その時間が3時間というから半端ではない。そんなことが何度か繰り返されたがだんだん2時間、1時間と時間は短くなっていったらしい。「この親には泣いて座り込んでも通じない」ことを少しは学習したようだ。持久戦で親の勝ち。


私が2歳の時に兄が難病で入退院を繰り返すことになった。親は手が回らなくなるので私を親戚に預けることも多かったと言うが親戚も私に手を焼いたと言う話は何度も後でされた。


私は行きたい方向に行きたいだけだったのに「赤信号だから」「行き止まりだから」といって止められたらしい。それでも行くと言って聞かずに癇癪を起こしたらしい。


ある夏の日にプールに連れて行ってもらった時には大人用のプールに行こうとしたので「そっちは危ないからダメ」と言われたがその理由が分からず大泣き。親戚に後になって


「1回プールに落としてやればよかった」


と何度も言われたから半端な癇癪ではなかったことだけは確かなようだ。


 あとひどかったのは偏食。においの強いものが苦手で肉がまずダメで揚げ物もダメだったし、野菜もにおいの強い野菜は苦手だったので何食べてたのだろうと言うくらい。これは半ば強制的に直された。結構食わず嫌いと言うものも多かったようで..。


小さい時の記憶はこれくらい。3歳の検診でも「自閉症」と言われなかったので言葉の発達に遅れはなかったようだ。とにかく手のかかる子供であったことだけは確かなようだ。集団生活にならないこの時期は親だけが手を焼いていればよかったがこれからが集団を巻き込み大変な展開が繰り広げられます。