列車が千歳空港(現・南千歳)駅を過ぎたあたりから眠りについてしまい、まずまずの睡眠をとることができた。それでも到着の22分前に「次は終点釧路です」のアナウンスで起こされ、肩と腰の痛みを抱えながらガスのかかった道東の景色を眺める。遠くに海があるらしいがまったく見えない。何日か前の下北半島や、つい前日に乗った函館本線の長万部-倶知安間を「道東に匹敵する風景」なんて日記に書いたばかりだが、やはり、あまりにスケールが違う。道東は「立ち木がなく」だだっ広い平原に草が生えてるだけの、まったくの荒涼とした景色が展開する地なのだ。
 そんなこんなで一年ぶりの釧路に着いたが、何しろ肩や腰に限らず体のあちこちが痛くて、観光どころではない。ここは気の早い皆に倣って、発車の一時間も前なのにすでに長くのびていた「おおぞら2号」を待つ列に並ぶことにするか。改札口では、「ミルクのふるさと・北の大地にようこそ」のよつば3.4牛乳と、「グリーングラスはミルクになった」のホクレンの広告が張り合っている(結局は同系列のようだが)。そのホクレンの「DRINK MILK LAND HOKKAIDO」のTシャツを着た親子連れも見かけた。改札が始まると皆はこぞってホームへと向かう。そんなに慌てなくても、席は容易に確保できた。
 草原が広がる車窓を見ながら、「おたのしみ弁当」とは書かれているが中身はごく平凡な500円で買った駅弁を広げる。私の席は鈍い灰色に始終高波が立つ海側。あらためて、あの白糠が港町であることを知る。オロナミンCの緑色の工場にも再会した。牛もいた。それにしても釧路-池田間は、一時間半もかかったという記憶はなかったのだが。畑にも牧草地にもならない泥炭地、巨大ラワンぶきの群生、町らしい町といえば前述の白糠のほかは、厚内と、材木が駅を取り囲む浦幌くらいだ。しかし、この浦幌あたりから畑が増えてきて、荒涼とした景色は影を潜めるようになる。文字通りの「ワイン城」で知られる池田は、工事中の下水道管理センターの建物もユニーク。ここから立ち人ができるほど大勢が乗り込み、十勝川の大河川と十勝平野の牧場や畑、そういうものを見せながら池田-帯広は二十分。そして帯広からはいよいよ、前年の豪雨のために乗れなかった未踏破区間に入る。池田よりもさらに大勢の人たちが乗ってきて、立ち人はさらに増えた。ごった返すといった感じの車内から窓に目をやると、白樺林と、銘菓「きなごろも」の柳月の看板が続いている。
 芽室あたりでは屋根の形に特徴のある比較的新しい住宅が見え、トウモロコシ畑が見え、御影あたりから針葉樹の林が現れ、次第に畑よりも森林のほうが多くなっていく。狩勝峠は近い。思いのほか大きな十勝清水駅を過ぎると、次が新得。釧路から、池田、帯広にだけ停車して、ちょうど二時間半かかった。

 私のほかに五、六人が下車した新得の駅前は小綺麗な感じで、洒落た雰囲気の案内地図も掲げられていた。トムラウシ温泉もさほど遠くない位置に記されている。喉が渇いたので100円のファンタオレンジで潤し、石勝線開業までは日本一長い駅間を誇っていた隣の落合までの運賃、380円をあらためて確認する。加えて石勝線開業で新得-滝川間にはついに特急が走らなくなり、急行も二往復だけ。残る普通列車の本数も、前の年に比べれば激減している。さっき乗ってきた「おおぞら2号」はその後、石勝線の占冠(しむかっぷ)に停車すると案内されていた(当時の石勝高原-現在のトマム-駅は通過と記憶)。こちらは隣の駅まで普通列車で、なんと45分もかけて向かうのである。
 新得を出た二両編成のディーゼルカーは、町並みを抜けるとサッとトンネルに入る。途中に見えるスキー場のエリアには、赤や黄色の花が「しんとく 交通安全」の花文字を作っている。だんだん森ばかりになっていき、農家はまばらに。そして今度は長いトンネル。その先が落合…というわけではなく、トウモロコシ畑や雪除けのドームを経て、西新得信号場に到着。ここまで新得から10分。
 牧草地、雪除けはまだ尽きない。次第に白樺林と雪除けとトンネルと草地の繰り返しばかりに。農家とトウモロコシ畑をたまに見かけるが、トンネルがすぐに隠してしまう。この日は朝からずっと曇り空。雪除けの工事中だった広内信号場には11時15分頃着いた。西新得から10分もかかっていない。
 立派な雪除けはいかにも山の中という風貌だが、意表をつくような牧草地もあって、馬や牛が見えたりする。小さなダム、トンネル。藪、林、そしてまた雪除け。警報機の音が聞こえたと思ったらそこは三つめの信号場、新狩勝。同名のトンネルの手前にあり、トンネルから列車交換の相手である釧路行のディーゼルカーが出てきた。それを待って、今度はこちらが新狩勝トンネルへ。最初は雪除け、やがて消火器も備えられた堂々たる壁の中へ。窓を開けていると寒ささえ感じる。トンネルの中で停まったところは上落合信号場。ここで、石勝線と分岐するのだ。トンネルを抜け白っぽい空の下、別れた石勝線を一瞥し、林の向こうに草地、道路が現れ短いトンネル。あとは林に挟まれ走る。このあたりにも農家があるとは。再三、トンネル。再四、トンネル。やっと落合の町並みが見えてきたが、正直途中で四カ所もの信号場に停まっていては、かつて日本一を誇ったという駅間距離は到底実感できなかった。前日の胆振線の御園-新大滝間のほうが、ずっと長いと思った。
 標高413メートルの落合駅。いささか拍子抜けしたせいか、急に眠気が襲ってきた。もう一度窓を開けよう。材木置き場が多いと感じているうちにまた山の中、そしてまた広い農場と点在する農家。幾寅では建て込んだ家に合わせるかのように、大勢の人が乗ってきた。南ふらのスキー場の看板の立つ斜面を眺めた後、また山の中に。と思ったら反対側の車窓には、川の流れる平地が広がっているようだ。東鹿越は石灰石の採掘場を擁するが、平地だと思っていたところは、じつは干上がった金山ダム湖であるらしい。前の年は洪水でこの区間の踏破を断念したはずなのに、皮肉なまでの車窓が展開する。
 山あいのトンネルなどを越えているうちに鹿越信号場(現在は廃止)が、今度は水をたたえた金山湖をバックに登場。湖をまたぎトンネルに入る頃には、列車は坂を転げるかのようにぐんぐんスピードを増してきた。窓が白っぽくなったのは雪除けのためか。新得側よりもずっと山の中を走るといった風情。金山ダムの姿もチラリと見える。
 突然、その景色を突き破るかのように、金山駅のホームと家並みが現れた。駅を発ち、家並みを過ぎるとまた山の中に至るが、徐々に農家や農地の占める割合が増えてくる。下金山はまだ山だったが、山部はちょっとした町であった(ちなみに当時から富良野市)。そしてこのあたりから、水田も優勢になってくる。
 わざわざ「釧路鉄道管理局」と添え書きされた駅名表示板が微笑ましかった布部。近くには「北の国から」ロケ地、麓郷入口の看板も見える。私が前年の北海道旅行から帰ってからテレビドラマが始まり、この年の春先まで続いた。自分は見たことはなかったが、驚異的な視聴率を記録したおかげで、富良野の知名度はまたたく間に上がった。前回の旅行でたまたま出会った男子大学生と富良野駅にあった「へそ祭り」のポスターを見て、なんだか地味な街だねと笑いあっていたのが恥ずかしくなった。すっかり山を降り、三角屋根の家並みを見て、もう、その富良野駅である。同じような形の家が山裾までのびている。
 次は赤とんぼが森の中を飛び交う島ノ下。タチアオイも咲いている。トンネルを抜けても相変わらず片側は斜面。そして両側とも山の景色になり、平地は富良野付近のほんの一瞬であったことを悟った。川向こうに農家や農地も見え、束の間の水田が寄り添う滝里駅(ルート変更により1991年廃止)。曇り空に赤とんぼと農家と田畑、近くに迫る山。渓流を渡るとまた山の中。そしてまた田畑が広がり、家が建て込んで野花南(のかなん)へ。その建て込みが続いたまま上芦別。市街地というにはこぢんまりとしている芦別。駅の裏山にはジャンプ台らしきものも見える。つい最近まで炭鉱の街として知られていたが、レジャー都市として復興を図るようだ。
 社宅らしき数十軒の民家と藪と石炭の山を抜け、草で覆われたボタ山のようなものがある平岸。遠くに見えていた集落が近づき、スポーツバッグでおなじみのACEの工場や、クルマのボディを作ってる(?)工場なども。石炭の山がある茂尻で七分間停車。ここから赤平まで家並みが続く。赤平は住友系の採炭都市で、ひときわ大きなボタ山が見える(ちなみに、北海道ではボタ山ではなく「ズリ山」と呼ぶのが一般的なようだ)。
 知らぬ間に小さな駅(幌岡信号場-この年の10月に廃止)を通過。このあたりは畑よりも水田が多い。そして市の郊外のような東滝川。いよいよあとひと駅だ。二年がかりの道内全線乗りつぶしは、達成目前。一面の水田がお祝いのように広がる。また小さな駅(一ノ坂信号場。幌岡と同じく、1982年10月に廃止)を通過する。
 そして滝川着。二年越しで北海道の国鉄旅客営業線全線完乗を果たしたつもりなのに、まったく実感が沸かない。本州に戻って、無事に東京に帰るまではこんなものだろうか。ディーゼルカーを降りた人の大多数は3番線へと向かう。そう、私と同じく「ライラック10号」に乗るためだ。

 すでに立ち人を乗せてきた電車特急は、滝川駅からの乗客をすべて立たせてしまった。せっかくホームで昼食の「たべっこどうぶつ」を100円で買ったのに食べられない。本を読みながら「札幌まで行けば、必ず座れるに違いない」と待つ。窓に水滴がつき始める。岩見沢を過ぎて札幌に到着すると、進行方向が逆になるというので、イスの向きを変える人たちが目立つ。その間隙を縫って空いた席に着くと、イスの向きを変えたおかげでスポーツ紙の入った網ポケット付きの背もたれが私の目の前に飛び込んできた。結局、甲子園の高校野球決勝は、池田が12-2で広島商を破って優勝旗を手にしたらしい。
 千歳では着陸態勢に入った日本航空機が見え、次の千歳空港駅で立ち人状態はきれいに解消されてしまった。それどころか、二席をひとりじめできるくらいのガラガラ状態に。空港のある側の景色に対し、反対側の窓にはうっそうとした森が見える。
 ロックのリズムを奏でているような特急の走行音。せっかく海岸沿いを走っているのに、窓一面は雨粒に覆われてしまい、灰色にしか見えない。途中の登別で下車。昨日は風呂に入らなかったので、短い北海道の滞在時間ではあるが、温泉を堪能したいと思ったわけだ。
 ところがそのへんの予習をしてこなかったのが運の尽き。駅から温泉街までは約八キロもあり、バスで行くのが一般的だとか。お金も惜しい旅。駅の旅館案内所で、駅から歩ける距離に公衆浴場はないか尋ねたら、「ありませんねえ…」と最初は首を振っていたものの、なんとか徒歩十五分くらいで行ける、国道沿いの施設を教えてもらった。
 小雨模様のなかに「温泉旅館」の看板が見えた。入浴料は240円で、掘り下げ式の浴槽は結構広い。しかし蛇口の数が少なく、その倍の十人ほどが浴室内にいたので、体を洗うまで待たなければならなかった。効能にはいろんな病名が書かれていたけど、いずれにせよ爽快な気分にはなった。
 何かの祭りだろうか。登別駅前には屋台が並んでいた(この日は土曜だったが、八月に行われる「登別地獄まつり」は、翌週の土・日開催であったと記憶している)。しかし食欲よりも喉の渇きのほうが切実だったので、駅で120円のポカリスエットを買う。確かに渇きは癒せるが、何度飲んでも慣れない味だ。
 駅に着いたのは六時半頃で、当初乗るつもりだった「北斗8号」の出発は21時26分だったから、まだかなり間がある。でも夜行の連絡船は混雑することを考え、早めに行こうと19時登別発「北斗6号」にスケジュールを変えた。

 今回の北海道旅行、最後の特急は前日の「北海1号」と同じ旧タイプの車両。一方、「北海3号」や「おおぞら2号」は運転席が高いところにあり、デッキから客室に入るところが自動ドアになっている(当時の)新タイプだ。あいにく形式はメモしていないが、想像するに旧タイプはキハ80系、新タイプはキハ183系を指すと思われる。ちなみに「ライラック10号」の781系は電車と気動車の違いを除けば、キハ183系に似ているとも思った。
 立ち人はいなかったが、座席はほぼ満席であった。暗闇の窓を見てもしょうがないので、読書に没頭。時折強い雨音が聞こえてきたが、函館に着く頃には雨脚が弱まっていた。特急内では「北海3号」の時と同様に、「東北新幹線開業記念メダル」なるものが販売されていたが、北海道でも買い求める客がいるのだろうか。
 とにかく登別からちょうど三時間、22時ジャストに函館に着いた。今更のように前年も、北海道旅行で最後に乗った特急が「北斗6号」であり、同じような時間に函館に到着したことを思い出した。あの時は今回とは比べものにならないほど車内がごった返していた。しかし一年しか経ってないのに、函館駅の待合室の雰囲気が記憶と異なっているのはなぜだろう(後で、前年の待合室は別の場所にあることが判明)。
 食堂のカレーライス(350円)を、遅い夕食にかき込む。その後はウォークマンでエアプレイの曲を聴きながら、本を読んだり日記を書いたりした。音楽も本もすっかり飽きてしまった。新しいものに取り替えたい。
 気がついたら23時。コーラ(100円)を、わずか二日間の北海道旅行の締めくくりに口にして、連絡船の改札へと向かった。ところがあろうことに、乗船名簿を書かなきゃならないことを失念していて、0時15分発に乗るつもりが0時40分発にまわってしまった。まあ、いいさ。翌朝は青森発6時05分の津軽線に乗ることにしている。どちらに乗船したところで影響はまったくない。


<今日の行程>
(札幌2210急行まりも3号)-0615釧路0720特急おおぞら2号-0950新得1057-1408滝川1420特急ライラック10号-1654登別1900特急北斗6号-2200函館