運の良い生き方とは、霊的な生き方である。
こう言うと勘違いする人が多い。
霊能力が高い人が良いと勘違いする人が多いのだ。
いやいや全然そうではない。
霊能力がどんなに優れていても、運の良い生き方ができるわけではない。
運の良い生き方は、言葉にすれば子供でも理解できる生き方である。
だが、分かるのと出来るのとは180度違うのである。
これをすれば運が良くなることは明々白々なのにそれが出来ない、だから運が良くならないだけなのである。
では「運の良い生き方」とはどういう生き方なのだろうか?
運の良い生き方をするには、まず第一に「怒らない」ことである。
どんなことにも「腹を立てない」ことである。
なぜ争いが起こるのか、それは「腹を立てる」からである。
「怒り」が腹の底にあるから、そこから争いになるのである。
多くの場合、それは自分が損をすると思うからである。
自分にとって不都合なことだから腹が立って怒りを覚えるのである。
自分の中から「怒り」をなくすことである。
このブログを見ている人はおそらくYouTubeも見ていると思うが、YouTubeで有名になった安芸高田市市長の石丸伸二さんがこう言っていた。
「私は喜怒哀楽が人間には必要であると思うが、しかしこの中の怒という言葉は必要ない、そう思います。後の喜、哀、楽は必要だと思います」
こういうことが言える石丸伸二さんは、おそらく運の良い生き方ができる人である、そう思う。
東京都知事をこういう運の良い人に託せるほど今の東京都民は霊性が高いだろうか?
今度の都知事選はある意味、都民の、否、日本人の霊性の高さを知ることができる選挙であると言えるかもしれない。
怒りを捨てなければ、必ず「愚痴」と「悪口」が出てくる。
愚痴や悪口というのは、本人に直接いう言葉ではなく、陰でいう言葉である。
あるいは言わなくとも思う言葉である。
もちろん愚痴や悪口を言っていては、思っていては運の良い生き方はできない。
愚痴や悪口は、相手を責める言葉である。
それは「自分は正しい」そう思っているから出てくる言葉である。
だが、本当に正しいのだろうか?
そもそも何に対して正しいのだろうか?
自分に対して正しいのではないだろうか。
人間はそんなに完全なのだろうか?
私は、人間は不完全極まりない、そう思っている。
完全ならば、怒りも愚痴も悪口も、あるはずがないのである。
だからこれらが自分に出てきた時には「あー、しまった。自分という人間はまだまだ不完全なんだなあ」と反省して、二度とそういう気持ちを持たないようにするよう心がけると良い。
それでもなかなか無くならないのがこの三つである。
運の良い生き方をするには、更にもう一つ捨てるものがある。
それは「うそ、ごまかし、かくしごと」である。
これらの「不正直」を自分の中から捨てることである。
なぜ人は「嘘をつき」そして「ごまかし」て、「かくしごと」をするのだろうか?
天は全てを見ているのに、である。
我々がしていることは、全てバレていて何も隠せてはいないのである。
このように「コソコソする生き方」が運の良い生き方のはずがない。
なんと小さな生き方なのだろうか。
まるでアリのような小ささではないか。
我々は人間なのである。
そもそも何故人間としてこの地上になぜ生まれてきたのだろうか?
それは自分を変えていくためである。
自分の生き方を、運の良い生き方に変えていくためである。
そのための試金石として、みなさんには「家族」がいるのである。
家族は偶然にいる訳ではない。
家族はみなさんが運の良い生き方をするための試金石なのである。
だから運の良い生き方をするためには、どうしても家族という踏み台、階段を越えていかねばならないのだ。
つまり、まずみなさんがしなければならないのは〜運が良い生き方をするために〜家族に対して、上記の4つを捨てることである。
上記の4つとは、「怒り」「愚痴」「悪口」「不正直」である。
霊的に生きるとは、霊性を向上させる生き方のことである。
なぜ霊性を向上させると運が良くなるのかというと、人間の本質が霊魂だからである。
霊という言葉は死後を連想させるが、そうではない。
今、肉体という身体を身につけてはいるが、我々人間は霊魂なのである。
もし「自分が霊魂である」ということを疑うならば、試しに上記の4つを自分の中から無くしてみると良い。
もちろん簡単なことではないが・・・
そうすれば、自分が霊魂である、ということがきっと得心できる、腑に落ちるようになるに違いない。
何故ならば自分の運が良くなって、「幸せ」を感じるようになるからである。
そして、自分が運の良い生き方をすることで、全生命の進化に寄与することになるのだ。
大言壮語ではない。
これは誰にでもできることなのである。
そのために我々には「意識と意志」である「魂」があるのだ。