國幣中社鹽竈神社裏坂道路改修工事記念碑 | 哲風のBLOG

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 「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」を目指している宮城県塩竈市に鎮座する志波彦神社鹽竈神社の神事,四季の移り変わりや,仙台,塩竈,多賀城,松島など宮城県内各地の名所,旧跡,行事などを紹介します。

 鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)と伊達氏(仙台藩主家)の密接な関係の紹介・第6回です。

 

 鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)東参道(裏坂)下の「國幣中社鹽竈神社裏坂道路改修工事記念碑」です。

 

裏坂碑

 

 この碑には,「報神徳 國幣中社鹽竈神社裏坂道路改修工事記念碑 従三位伯爵伊達宗基篆額 掛巻も畏き鹽竈大神の敷座せる此れの宮居は天下に名高き勝地にて花の朝月の夕は更にもいわず海山の眺望も他に比類なしとさへ稱へらる是れ往古大神の親自ら此地形を巡視て宮處と定め生業の基を開き給ひし處なればなる遍し本社に詣づる道三つあり其一を表坂といふ石階二百餘級あり此は昔藤原秀衡の造りきといふなるを舊藩主の君の更に修造せられるなり其二を七曲坂といふ此は境内を横切り上野原を経て松嶋江至る道にて傳て大神の鹽を煮んとて海遍に通い給いし處なりといえり其三を裏坂といふ此は元町家の間より登る小径なりしが彼二途の険しきと遠きとに比ぶれば甚便宜とて文政天保の頃仙臺の中井新三郎等相謀りて更に巌を切開き坂路を繕ひしかば此道より詣づる者漸く多くなれり明治十九年に至り鐵道を鹽竈町に延べ停車場を本町の東端に設けしかば此道より詣ずる者増々加るに至れり然れど此坂路は入口猶狭く亂かはしくて賽者の飽かず思うのみならずかくては大神の御心にも背き奉らんことを恐みて宮司水沼政載主甚く憂ひ慨き改修めん事を思立ちて之を有志者に謀りしに仙臺の角田専治此町の及川仙兵衛等幷に氏子総代の人々大に之を賛成し直に発起者又は委員となりて此事業を分繕ひ寄付金の募集にはた工事の計画に各々協心戮力して今年一月事始せしに折しも皇太子殿下東北の国々を巡らせ給ひ特に本社にも詣で給ひければ即ち其の記念の工事として事竟へぬ今其梗概を挙げんに此坂路は元の道幅僅に貮間なりしを六間に石階の幅僅に壱間半なりしを四五間に取擴め新に敷石を布くこと三拾七間道路を平かにし石垣下水堀暗渠等を構へ大小の石燈銅籠五対を設け其他民有宅地を買収め家屋を移さしむる等其費金七千有余圓の多額に至るも皆有志の人々の献金に成り特に仙臺の大内源太右衛門は大なる石の華表を献じて此挙を助たる今社頭は舊態を改めていと清き處となりまた一入の風致をも添へたれば禰々六神の御稜威を仰がぬ者はあらずなむ爰に明治四十一年十月五日宮司水沼主の請によりて其顛末を記す 文学博士松本愛重 小野鵞堂書」とあります。

 

 この碑文を読むと,明治41年に竣工した東参道改修事業を顕彰するために建てられたものであることが分かります。この碑文中には「文政天保の頃,中井新三郎の提唱により裏坂の改修が行われた」と記されています。しかし,どのような改修であったのかは分かりません。そのため,東参道が現在のような稲井石(井内石)の敷石となったのは明治41年のことであると,かなり長い間信じられて来ました。

 しかし,まったく違ったのです。鹽竈神社二之鳥居から旧・法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺,別名「一森山鹽竈寺」,真言宗,鹽竈神社の別当寺)門前までの約300mが稲井石の敷石になったのは,天保3年(1832年)のことだったのです。改修の総経費は1350両で,中井家(中井新三郎は,近江商人・中井源左衛門が仙台に出した支店「近江屋」の支配人だったとのことです。)が800両を寄付しています。明治41年の改修は東参道の入口部分でしたが,総経費は7千円余です。これもかなりの規模の改修工事であったようです。東参道の入口に店舗が面していた遊佐寿助(遊佐一貫堂)が500円を寄付しています。

 なお,明治41年になっても,「六神の御稜威」と鹽竈神社に6柱の神が祀られているかような記載があるのは不思議です。

 

 さて,この「記念碑」と伊達氏がどう関係があるのか,「報神徳」の篆額が仙台藩第14代藩主であった伊達宗基によって書かれただけで,「密接な関係」ではないのではないかという疑問があるかも知れません。この東参道は,江戸時代は別当寺(神社を管理するために置かれた寺)であった法蓮寺の僧侶が毎日鹽竈神社へ通う道路だったのです。法蓮寺は東参道を挟んで12の脇院を有するだけでなく,社家(世襲の神職)を抑え,社務一切を支配していました。第5代藩主・吉村の寶(宝)永元年(1704年)に,鹽竈神社は最も多くの加増(550石)を受けるのですが,その際にも「法蓮寺の下知に従え」と命ぜられています。つまり,社家は僧侶の横暴に耐えなければならないため著しく士気が衰え,左宮二禰宜・鈴木晴金自ら社家について無学文盲の者ばかりであると述べている状況でした。僧侶と社家の間に種々の争いが生じることになります。特に大きな事件については,別途紹介することにします。