鋳銭釜・長明燈 | 哲風のBLOG

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 「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」を目指している宮城県塩竈市に鎮座する志波彦神社鹽竈神社の神事,四季の移り変わりや,仙台,塩竈,多賀城,松島など宮城県内各地の名所,旧跡,行事などを紹介します。

 鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)と伊達氏(仙台藩主家)の密接な関係の紹介・第4回です。

 

 鹽竈神社博物館近く(志波彦神社鳥居近く)にある鋳銭釜です。鋳銭釜自体は鹽竈神社とは無関係です。JR石巻線(仙石線)・石巻駅(石巻市鋳銭場)周辺は「鋳銭場」(いせんば)という地名ですが,江戸時代にここで鋳銭(貨幣を鋳造)していたからです。仙台藩は領内の銭貨不足を理由に,江戸幕府にしばしば鋳銭を願い出ていました。幕府の許可を得て,第2代藩主・伊達忠宗の寛永14年(1637年)及び第5代藩主・吉村の享保3年(1728年)に銅銭の「寛永通寶」を,同じく吉村の天文4年(1739年)及び第7代藩主・重村の明和5年(1768年)からは鉄銭の「寛永通寶」を鋳造しています。仙台藩は,領民に対し幕府鋳造の「寛永通寶」の使用を禁止しています。それらを仙台藩の収入にするためです。

 

鋳銭釜(1)

 

鋳銭釜(2)

 

 また,幕府の許可を得て,重村の天明4年(1784年)からは独自の通貨である「仙臺通寳」を鋳造しています(材質が悪く,5箇年の期限を待たずに鋳造中止)。同じ天明4年(1784年)には「銀札」と呼ばれる不換紙幣を発行し,正金の使用を禁止しています。平成28年に公開された「殿,利息でござる!」(原作は磯田道史氏の「穀田屋十三郎」(「無私の日本人」所収))という映画がありました。フィギュアスケートの羽生結弦選手が重村を演じています。映画では名君ということになっていますが,実際には猟官運動などで仙台藩の財政危機を深刻化させています。だからこそ,仙台藩は吉岡宿(現・黒川郡大和町吉岡)の町人らから1000両を借り,年1割の利息(100両)を支払うことになったのです。

 

 つまり,仙台藩は早くから財政危機・破綻の状態になっていたのです。ただし,藩は倒産しません。大名に金(かね)を貸す「金主」(きんしゅ)・「銀主」(ぎんしゅ)と言われる商人が倒産するのです。

 

 鹽竈神社随身門(楼門)を入って直ぐの所にある「長明燈」です。仙台藩御用の米商人(大坂の豪商)・山片重芳(第4代升屋平右衛門)によって奉納された一対の燈籠です。「しおがまさま境内案内」によると,「境内にある石造の燈籠としては最も立派なもの」とのことです。いつ奉納されたものでしょうか。同じく「しおがまさま境内案内」には,「享和元年(1801年)に寄進された」と書いてあります。石には「享和元年辛酉秋八月」と刻されています。享和元年は辛酉(かのととり,しんゆう)歳ですから,享和元年で争いはないはずです。ところが,大阪青山短期大学講師・宮田徳雄氏の調べによる由来文には,「享和3年(1803年)御影石で作り,大阪から大船で運んできた」と書かれているのです。由来文が誤記なのでしょう。いずれにしても,第9代藩主・周宗(ちかむね)の時代です。その升屋の番頭が山片蟠桃(ばんとう,諱(いみな=本名)は芳秀)です。蟠桃は,財政危機にあった仙台藩の差米(さしまい)検査を無料で引き受ける代わりに,抜いた米を貰うこととし,藩札で米を買い上げ,現金は大坂で利殖に回して巨額の利益を上げました。一時的に仙台藩を救ったのです。

 

長明燈(1)

 

長明燈(2)

 

長明燈(3)

 

長明燈(4)

 

 嘉永5年 3月18日(1852年5月6日)吉田松陰(諱は矩方)は鹽竈神社に参拝していますが,松陰は「東北遊日記」の中で「仙台は行ふ所は,銅銭甚だ少なく,皆銑銭(ずくせん,銑鉄で鋳造した銭)の極めて弊悪なるものなり。 鈔幣(紙幣)には一歩札・二朱札あり,原(もと)は金と相抗せしも,漸く其の権を失ひ,今は即ち一歩札,三百七十五銭若しくは四百銭のみ。」と,仙台藩の貨幣政策を痛烈に批判しています。1両=4分(歩)=16朱=4000文ですから,1歩札は1000文のはずですが,その37.5%か40%の価値しかないというわけです。仙台藩の貨幣政策は,完全に失敗でした。ひたすら商取引を混乱させ,物価を高騰させたのです。結局,人々は通貨よりも米にしがみ付かざるを得なかったのです。

 

【令和4年7月10日(日)追記】

 長命燈について,私の大先輩であるO氏が志波彦神社鹽竈神社に問い合わせたところ,「享和元年(1801年)大阪で作り,享和3年(1803年)に大阪から運んで来て奉納された。」との説明があったとのことです。2年も要したというのが不思議ですが,そういう記録があるのでしょうか。