★①フジ坊・何これシリーズ…「銅像①!」 | ☆フジ坊の☆☆☆7つの星に願いを込めて☆☆☆

☆フジ坊の☆☆☆7つの星に願いを込めて☆☆☆

梅雨真っ只中、皆様いかがお過ごしでしょうか?
体調崩されていませんか?
今月は七夕月、7/7、7つの星✴に願いをかけてみましょう!

🗽皆様おはようございます🗿



🗽今年から始めた新シリーズになります。



🗽旅先では、よく銅像を見かけます。



🗽その土地に所縁のある方だったり、また、その街づくりに貢献された方だったりと、建てられた理由は様々でしょう。



🗽今年から更新するこのシリーズは、様々な銅像と簡単な説明をご紹介申し上げるシリーズです、それでは 、早速始めたいと思います、尚、我が国で、最も有名な銅像の一つ「ハチ公」の完成日「8日」にちなんで、月の8日が付く日に更新する予定にしています、宜しくお願い申し上げます。



🗽シリーズ第1号、栄えある1番目は、別府温泉の父とも言われている「油屋熊八(アブラヤ•クマハチ)」です。

(別府駅前に建つ油屋熊八の像)

✏油屋熊八(1863~1935) は、愛媛県宇和島市出身の実業家、「別府観光の父」「油屋将軍」との異名を持つ。 30歳で大阪の米相場で富を築くも、相場で失敗し破産、単身アメリカに渡り、クリスチャンとなる。 明治44年、妻を頼って別府へ、聖書の教え「旅人をお持てなしせよ」をモットーに、別府に亀の井旅館を、湯布院に亀の井別荘を創業、バス事業にも進出、亀の井バスを設立して日本初の女性バスガイドの案内による地獄巡り定期観光バスを運行、別府の発展に尽くした功績は計り知れない。 富士山山頂にある「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」のキャッチフレーズは、熊八の考案である。


🗽2体目は、ザビエルを招いて、積極的にキリスト教の布教を奨励したキリシタン大名「大友義鎮」です。
(大分駅前に建つ大友宗麟の像)

✏大友氏第21代当主•大友宗麟(1530~1587) は、法号を宗麟、洗礼名をドン•フランシスコと言い、豊後、筑後を支配した守護大名である。 大友氏は、明や琉球、カンボジアやポルトガル等との交易による経済力や優秀な家臣、巧みな外交を武器に勢力を広げ、九州北部を支配する大大名となるも、島津義久に敗れ、豊臣傘下の一大名となる。


🗽3体目は、その大友宗麟の招きに応じて大分や山口で布教活動を行った「フランシスコ・ザビエル」です。
(大分駅前に建つザビエル像)

(フランシスコ•ザビエル説明書きです)

(山口市のザビエル記念聖堂に建つザビエル像)



✏フランシスコ•ザビエル(1506~1552)は、スペインのナバラ出身、カトリック教会司祭、宣教師、聖人でイエズス会創設者の1人で日本に初めてキリスト教を伝えた人物。 インドのゴアで布教活動後、1549年、鹿児島に上陸し、島津貴久から布教活動の許可を得る。 鹿児島を後にしたザビエルは、その後、平戸、山口、京都と布教活動をするも、仏教界と衝突、山口と大分で布教活動をする。 ザビエル曰く「全世界の国民の中で、最高であり、日本人より優れた人々はいない」と評している。
 

🗽4体目は、宇佐神宮や小倉にも、少なからずご縁がある「和気清麻呂」です。
(北九州市小倉北区安部山公園に建つ和気清麻呂の像)

(和気清麻呂公説明書きです)

(葛原八幡宮に建つ和気清麻呂公の立像)

(その説明書です)

✏和気清麻呂(733~799) は、岡山県和気町出身の貴族で、弓削道鏡の企みを未然に防いだ忠臣。時は称德天皇の御代、弓削道鏡が皇位を得んと策謀、偽物の宇佐八幡宮の託宣「道鏡が皇位に就けば国平らかならん」を天皇に奏上、疑念を抱いた称德天皇は、和気清麻呂公を宇佐八幡宮に派遣する。 宇佐八幡宮は、「我が国開闢以来、君臣之定まれり、臣を以て君と成した事なし、天つ日嗣は、必ず皇緖を立てよ、無道の者は、宜しく早く掃除すべし」との託宣を清麻呂公に告げ、天皇に奏上、怒った道鏡は清麻呂を穢麻呂と改名させ、足の筋を切って大隅国に流罪に処した。 清麻呂公が流罪の途中、200頭の猪🐗が現れ、宇佐八幡宮へ、そこで、宇佐八幡宮は、「企救の山裾に霊泉あり、浸れば、たちどころに治るであろう」と告げ、清麻呂公は、霊泉にて足が立ち、後に流罪を解かれ、平安遷都に尽力された。 


🗽5体目は、漱石と並ぶ明治の文豪「森鴎外」です。
(北九州市小倉北区の森鴎外旧宅にある鴎外像)

✏森鴎外(1862~1922) は、島根県津和野町で生まれる、東大医学部に入学し、1884年ドイツに留学、1893年陸軍一等軍医正、1899年小倉第12師団軍医部長として小倉に着任、1902年第1師団に転任し小倉を去る、1922年逝去。小倉時代の経験から「鶏」「独身」「二人の友」所謂、小倉三部作の作品がある。


🗽6体目は、小倉所縁の漫画家・松本零士氏所縁の銅像です。

✏小倉駅北口に建つ松本零士(1938~2023) の代表作「銀河鉄道999」(昭和53年フジテレビ系) の主人公のメーテルと星野鉄郎です。


✏同じく、松本零士原作の昭和53年にテレビ朝日系で放映された「宇宙海賊キャプテンハーロック」の主人公・ハーロックの銅像です。 新幹線で北九州を訪れた殆どの方が記念撮影をするスポットです。


🗽7体目は、大相撲の元大関「魁皇」です。
(福岡県JR直方駅前に建つ魁皇の勇姿)


🖍️福岡県直方市出身の魁皇(1972~ )は、本名を古賀博之、愛称はゴリラ。 大相撲の元大関で、初土俵は1988年3月場所、友綱部屋の所属。 得意の左四つから繰り出す豪快な上手投げを武器に、幕内最高優勝5回、殊勲賞10回、敢闘賞5回、金星6個、積み上げた勝ち星は1047勝にも上る。 2011年7月場所を最後に引退、年寄 浅香山を襲名し現在、後進の指導に当たっている。  


🗽8体目は、放浪の小説家「林芙美子」です。
(2年間滞在した直方市に建つ幼少の林芙美子)

(北九州市門司区羽山に建つ林芙美子生誕地記念文学碑)

✏林芙美子(1903~1951) は、放浪の小説家と称され、その人生は波乱に満ちた生涯であった。
出生地からして謎に包まれ、山口県下関市とあるが、最近の定説では、北九州市門司区が有力である。「貧乏を売り物にする素人小説家」「半年間のパリ生活を売り物にする成り上がり小説家」「軍国主義を囃子立てる政府お抱え小説家」などと批判の的になり、不遇の人生を送る。
1914年、11歳の時、福岡県直方市に移住、その直方市の印象を芙美子は、「砂が混ざった鉄分の多い水で舌が汚れる町」「門司のように活気あふれる街でもない」「長崎のように美しい街でもない」「佐世保のように女の人が美しい町でもなかった」と記している。 2年後の1916年、13歳の時、尾道市に落ち着く。 代表作「放浪記」の冒頭に「私は宿命的な放浪者である、私は古里を持たない…従って、旅が古里である」如何にも、芙美子の人生を物語る一節である、又、尾道への帰路での「海が見えた 海が見える 5年振りに見る尾道の海はなつかしい」は、余りにも有名である。
代表作に「放浪記」「めし」「浮雲」等がある。    


🗽9体目は、竜巻博士こと「藤田哲也博士」です。
(小倉南図書館にある藤田博士の胸像)

✏野茂英雄だけではない、元祖「Mr.トルネード」藤田哲也(1920~1998) 博士は、地元、北九州市小倉南区出身の世界的な気象学者、九工大を経て米国のシカゴ大で研究に没頭、雷雲下、下降気流やダウンバーストを発見、世界の航空機の安全に貢献した。 藤原賞受賞する。
竜巻の強さを表すFスケールの「F」は、藤田博士の頭文字「F」である。 もし、ノーベル賞に気象学があったなら、受賞は間違いなかったであろうとまで言われました。

(竜巻博士•藤田博士の説明書きです)


🗽10体目は、「禅海和尚」です。
(大分県中津市の青の洞門前に建つ禅海和尚)

(青の洞門と山国川と競秀峰)

(禅海和尚の説明書きです)

✏菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で、余りにも有名になった禅海(小説では了海)和尚(1691~1774)は、江戸中期の曹洞宗の僧で、越後高田藩の出身、本名を福原市九郎と言う。 両親を亡くした市九郎は出家し、諸国を行脚の末、豊前国の羅漢寺に到着。 そこで、山国川を望む「青の渡り」で難儀する人馬を見て、1730年、洞門掘削を思いつく。 領主や村民の協力の末、1763年、30年余りの歳月を経て洞門が完成、転落に難儀していた旅人を救ったのだった。 尚、後に、通行料を徴収した洞門は、我が国最初の有料道路でもあった。 菊池寛の有名な小説「恩讐の彼方に」では、主人である中川三郎兵衛を殺害した了海(禅海) が出奔し、道々強盗事件を起こしながら豊前国の青の渡りに辿り着く。 後悔の念から洞門掘削を思いつき、 やがて、仇と狙う三郎兵衛の息子と出会う。 ただひたすらノミをふるう了海の心に打たれた息子は、父親の恩讐を忘れて、共に、掘削に打ち込むのだった。


✏銅像シリーズの第1作目、いかがでしたでしょうか、余り、日の目を見る事が無い銅像ですが、その方の“人となり”を、改めて知る、良い手段と成り得るように思います。


✏現在、シリーズ⑦まで作成済みです、存じ上げている銅像、お住まいの近くにある銅像などが登場しましたら、ちょっと覗いてみて下さいね。


🙇最後までお読みいただき、ありがとうございました。