西寺跡~東寺(後編) | 鉄道で行く旅

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「西寺跡から東寺まで歩く」の後編(羅生門跡~東寺~京都駅)です。撮影日は2024年8月11日(日)でした。

 

九条七本松の交差点です。この日の京都の最高気温は36.0度でした。

 

九条新千本の交差点です。もう東寺(教王護国寺)の五重塔が見えています。


続いて、九条旧千本交差点付近です。

 

京都市による矢取地蔵尊の駒札(説明板)です。

本尊は矢取地蔵尊。石像で右肩に矢傷の跡が残っている。左手には宝珠、右手に杖、矢を持つ。かっては矢負地蔵ともよばれた。

824年日照り続きで人々は飢えと渇きに苦しんでいた。そのため淳和天皇の勅命により東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)僧都が神泉苑の池畔で雨乞いの法会を行った。先に守敏が祈祷するも雨は降らなかった。対して空海が祈祷すると三日三晩にわたって雨が続き、国土が潤った。

これにより守敏は空海を恨み、ついに空海を羅城門の近くで待ち伏せて矢を射かけた。すると一人の黒衣の僧が現れ、空海の身代わりとなって矢を受けたため、空海は難を逃れた。

空海の身代わりとなった黒衣の僧は地蔵菩薩の化身でたったため、その後の人々はこの身代わり地蔵を矢取の地蔵と呼び、羅城門の跡地であるこの地に地蔵を建立し、長く敬ってきた。

(引用者注:このように書いてありますが、空海の祈祷は伝説程度のものでありますし、守敏が空海を襲ったとは思えません)

 

 

左 やわた八幡宮、右 やまざき観世音菩薩の道標がありました。

 

羅城門跡の入口があります。羅城門跡への訪問は3回目です。

 

 

紀行作家の宮脇俊三氏(1926年~2003年)が「平安鎌倉史紀行」の取材で「羅城門遺址」を訪ねたのは1990年9月13日(木)でした。このときに宮脇俊三氏は西寺跡も訪問されています。

 

「羅城門遺址」の石碑です。

 

羅生門は、平安京の中央を走る朱雀大路の南端に造られた幅 35.7m、奥行約10.2mの 二階建ての大門でした。暴風雨によって二度も倒壊し、980年を最後に再建されませんでした。羅城門上に安置されていたとされる兜跋毘沙門天像(国宝)は、現在東寺に所蔵されています。

 

羅生門跡の説明板です。

 

 

京阪国道口交差点の歩道橋の上から見た東寺(教王護国寺)です。東寺は何度も拝観していますので、今回は簡潔に説明します。

 

東寺の地図です。

 

京阪国道口交差点付近から見た東寺です。

 

東寺の南大門(重要文化財)です。

 

東寺の金堂(国宝)です。現存の建物は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されたものです。

 

 

東寺の八島社殿と五重塔(国宝)です。この五重塔は5代目で、寛永21年(1644年)に徳川家光の寄進で建てられたものです。

 

東寺の講堂(重要文化財)です。

 

東寺の食堂(じきどう)です。

 

東寺の宝蔵前の蓮池で見たマガモです。

 

ハスの花の開花(関西でのハスの開花のピークは7~8月中旬頃)がほとんど終わっているのを見て、暑いながらも、季節は秋になっていると感じました。

 

宝蔵の蓮池から眺めた東寺の五重塔です。

 

東寺の慶賀門(重要文化財)です。

 

東寺から京都駅に向かう途中、「針小路通」を歩きました。東寺といえば『DX東寺』を思い出してしまいます。

この画像は、京都の三大ストリップ劇場のうち、『新星DX伏見劇場(元・伏見ミュージック)2005年1月10日閉館:A級伏見の名で親しまれていました』や『千中ミュージック(1987年6月11日の火災後に閉館) 』が亡き後も、唯一つ現存する『DX東寺』です。

↓ 外部リンクです。

 

もうすぐ今回の旅の終着点である京都駅です。堀川八条の交差点で近鉄3200系を見ました。

 

2018年4月に撮影した近鉄の同区間(堀川八条の交差点付近)です。画像の場所は太平洋戦争の戦時中に営業を休止した八条駅付近です。東寺の五重塔が見えています。

 

最後に、京都駅から新快速に乗車し、大阪駅まで帰りました。(参考画像:2019年10月撮影)

(おわり)

 

俳句を作ったことはある?

ヘボですが、一応は、季語が入った俳句を作ったことがあります。

仙山線山寺駅

天台宗・立石寺(山形県山形市山寺)にある松尾芭蕉像と句碑です。(2002年2月撮影)

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

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