大阪の渡船を巡る(中編) | 鉄道で行く旅

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「大阪の渡船を巡る」の中編(2日目)です。

南海電鉄の汐見橋駅です。

 

汐見橋駅から画像の南海2230系で木津川駅に向かいました。

 

都会の中の秘境駅と言われている木津川駅です。このときの下車客は3名だけでした。

この駅舎は1940年(昭和15年)に建て替えられたものです。

 

木津川駅の構内です。レールが撤去されている貨物側線跡の方向を眺めました。南海電鉄の貨物輸送は1971年に全廃になっています。

 

(参考画像)

2005年10月に木津川駅で撮影した画像です。このときは、貨物側線の跡地に向かうレールがまだ残っていました。

これは南海電鉄の貨物列車が高野山方面から輸送してきた木材を降ろすための貨物側線の痕跡の一部です。

 

南海電鉄の貨物輸送用のED5121形電気機関車です。(1970年・南海天王寺支線天王寺駅)

 

昔の木津川駅構内が写っている国土地理院の空中写真(1948年)です。木津川と木津川駅貨物側線の間に木材積み替え用の入堀があります。側線の一部は入堀の西側(木津川側)にも延びています。ここで船に積み替えられた木材は、昔あった「大正運河(1970年に消滅)」を経由して大正区千島や大正区小林町(こばやしまち)の貯木場(今はありません)まで輸送されていました。
 

徒歩による渡船巡りの中編(2日目)は、南海電鉄の木津川駅をスタート地点とし、渡船に乗船したうえで、ゴール地点の大阪メトロ四つ橋線の北加賀屋駅まで歩きます。

中編(2日目)で乗船する渡船は(3)~(7)の5カ所です。乗船日は2022年1月19日でした。

 

3.落合上渡船場

千島側     大阪市大正区千島1丁目29‐41
北津守側    大阪市西成区北津守4丁目15‐1

4.落合下渡船場

平尾側  大阪市大正区平尾1丁目1‐26
津守側  大阪市西成区津守2丁目8‐21

落合上渡船場は、大正区千島1丁目と西成区北津守4丁目を結んでいます。(岸壁間100メートル)

落合下渡船場は、大正区平尾1丁目と西成区津守2丁目を結んでいます。(岸壁間138メートル)

 

落合上渡船の北津守側の船着場です。津守の地名は、1702年(元禄15年)年3月に開発が完了した「津守新田」の名称からきています。

また、区名の西成(にしなり)は、上町台地の西側に形成された土地という意味の自然地形を由来にし、古代から「西生」「西成」と表記されてきました。

 

千島側に停泊している落合上渡船です。

後方の建物はURの千島団地です。よく知りませんでしたが、千島団地は大阪市内のURの中で最大戸数を誇り、大正地区のランドマーク的存在だということです。

千島の地名は、江戸時代に、この付近の土地を開発した岡島嘉平次の出身地「摂津国東成郡千林村(現在の大阪市旭区千林)」の「千」と、岡島嘉平次の「島」の字からとったものです。

 

木津川の落合上渡船に乗って北津守から千島に渡ります。アーチ型水門の木津川水門が間近に見えました。この水門を閉じるときはアーチ型の鋼製ゲートが上流側に倒れます。

木津川水門を含む大阪の三水門(安治川水門・尻無川水門・木津川水門)は、2019年度から約20年間かけて更新される予定です。

 

千島では、千島公園にある昭和山に登りました。

標高33メートルの昭和山(しょうわざん)は、大阪市大正区千島2丁目にある山です。これは、1970年(昭和45年)に地下鉄工事により発生した残土で貯木場跡地を埋めたときに出来上がった人工の山です。昭和山の命名方法は、人工の山の名所である天保山に倣ったということです。

帰宅後に、昔の地図で確認したところ、昭和山を含む千島公園は、昔ここにあった「木材市場」や「大正運河の一部」の跡地でした。ということは、南海電鉄木津川駅の歴史と関係が深い土地ということになります。国土地理院の空中写真(1964年)で当時の大正区の貯木場(貯木池)や大正運河を確認しました。ピンク色に塗った部分が現在は千島公園(昭和山を含む)になっている場所です。

 

千島公園の昭和山山頂から眺めた大正内港、千歳橋、なみはや大橋、港大橋および大阪府咲洲庁舎(愛称は「さきしまコスモタワー」)などです。

この千島公園内には昭和山以外にも小高い場所があり、最初は誤って昭和山ではない場所に登ってしまいました。そのため、ちょっとした時間のロスが発生しました。

 

続いて、落合下渡船の平尾側の船着場です。昭和山で道に迷ったため、昭和山から落合下渡船場までは早足で歩きました。

平尾の地名は、江戸時代にこの地を開発した平尾与左衛門に由来します。

 

落合下渡船に乗って平尾から津守に渡りました。

 

5.千本松渡船場

南恩加島側  大阪市大正区南恩加島1丁目11-1
南津守側    大阪市西成区南津守2丁目4-88

千本松渡船場は大正区南恩加島1丁目と西成区南津守2丁目を結んでいます。(岸壁間230メートル)

千本松の名は、かつて堤防の上に植えられていた松並木に由来します。
千本松の渡しは大正時代の中頃に初めて設けられたものと思われます。1973年(昭和48年)に千本松大橋が完成し、それとともに渡しは廃止されることになっていましたが、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も通勤通学の貴重な足として利用されています。

(注:大阪市による説明を要約したものです)

 

千本松渡船の南津守側の船着場に着きました。

 

千本松渡船と千本松大橋の2階式螺旋状坂路です。千本松大橋には人道橋も併設されていますので自動車・歩行者ともに通行は可能ですが、通勤・通学・仕事・買い物などの日常生活の範囲で徒歩利用するような橋ではないと思います。

 

千本松大橋は両端にある2階式螺旋状坂路の形状から「めがね橋」の愛称で親しまれています。

この千本松渡船と千本松大橋の独特な風景は写真愛好家の撮影名所でもあります。

 

2000年2月撮影

 

2000年2月撮影

 

千本松渡船に乗って南津守から南恩加島(みなみおかじま)に渡りました。「恩加島(おかじま)」の地名もまた、この付近の土地の開発者だった岡島嘉平次の姓名に由来する地名です。

 

6.船町渡船場

鶴町側  大阪市大正区鶴町1丁目16‐61
船町側  大阪市大正区船町1丁目3‐117

船町渡船場は、大正区鶴町1丁目と同区船町1丁目を結んでいます。(岸壁間75メートル)

 

船町渡船の鶴町側の船着場に着きました。

明治時代以降の埋立地である船町および鶴町の地名は、万葉集の和歌から町名がつけられています。

鶴町は田辺福麻呂の「潮干(ふ)れば 葦辺に騒く 白(あしたづ)の 妻よぶ音(こえ)は 宮もとどろに」の和歌から、

船町は田辺福麻呂の「あり通う 難波の宮は 海近み 漁(あま)童女(をとめ)らが 乗れる見ゆ」の和歌からです。

 

船町渡船の船です。

 

船町渡船の船内です。大阪市営の渡船の船内は、こういう構造の立席です。立席といっても乗船時間が短いですし、自転車利用者が多いので自転車置場という感じです。船町渡船で鶴町から船町に渡りました。乗船客は1名だけでした。

 

船町側から見た船町渡船です。

 

7.木津川渡船場

船町側    大阪市大正区船町1丁目1‐4
平林北側  大阪市住之江区平林北1丁目1

木津川渡船場は大正区船町1丁目と住之江区平林北1丁目を結ぶ(岸壁間238メートル)唯一の大阪港湾局管理(他の渡船は建設局管理)の渡船です。1955年(昭和30年)12月からカーフェリー(「松丸」134トン)が運航していました。乗用車から大型トラックまで運搬し得る能力を持っていましたが、上流部に千本松大橋が開通した1973年(昭和48年)の翌年からカーフェリーは廃止され、人と自転車のみを運ぶ渡船となりました。

 

木津川渡船の船町側の船着場に着きました。

 

木津川渡船と船町側の船着場です。

 

大正区の船町側から見た木津川渡船と新木津川大橋です。新木津川大橋は1994年に完成したもので、中央部の橋長は495m、中央部のスパンは305m、総延長は2.4km、幅員は11.25mです。アーチ橋としては完成当時は日本最長の橋でした。

この新木津川大橋にも人道橋が併設されており、自動車・歩行者ともに通行は可能です。

 

木津川渡船の船内です。船町から平林北に向かっているところです。乗船客は1名だけでした。

 

住之江区の平林北側から見た木津川渡船と新木津川大橋です。

 

新木津川大橋と木津川渡船の住之江区・平林北側の待合室です。

住之江区は1974年7月22日に住吉区から分離して設けられた区で、区の名称は、古代から付近一帯が「住之江」と呼ばれていたことに由来します。

また、平林の地名の由来については、明治以降も例外的に民間で「埋め立てによる土地開発」が行われたのが釜口政吉が開発した「釜口町」と平林甚輔が開発した「平林(平林北之町・平林南之町)」でしたが、住之江区が分離したときに「平林(平林北と平林南)」の地名だけが残ったことが分かりました。

住之江区の平林は、大正区内にあった貯木場、製材・合板工場、木材市場が移転した場所というイメージが今も強いです。

 

現地入りしてから、スマホで検索した昼食場所の「かつや北加賀屋店」での昼食です。カツ丼と豚汁(小)でした。

 

昼食のために、大阪メトロ北加賀屋駅北側の「かつや北加賀屋店」を利用したことから、当初は予定していなかった道を歩いたところ、視界の遠くに電車のシルエットのようなものを感じました。そういうのは見間違いであることが多いので、電車のシルエットを注視しながら近寄りました。

そして現地に着いたところです。空き地の中に大阪市電が置いてありました。しかも名車である3001形の3012号でした。

帰宅後に調べてみたら、この大阪市電は2019年7月19日に現在の場所に移設されたそうです。そ して、2019年9月に現在地で再塗装をしたとのことです。前保存先の幼稚園名は大谷幼稚園でした。その大谷幼稚園に大阪市電があったのは富田林市時代でして、幼稚園そのものは2019年4月に大阪狭山市に移転(大谷さやまこども園に改称)しています。おそらく、幼稚園の移転により大阪市電が無用の長物になったのでしょう。

この画像の土地の所有者から推察すると、アヒルプロジェクト(巨大ラバー・ダック)などで有名な千鳥土地(株)が大阪市電を引き取ったのだと思います。

 

おまけに旧型ロンドンバスのルートマスターも置いてありました。こちらは、「すみのえアート・ビート2021」のときに展示されていた車両のような気がします。

 

北加賀屋駅から大阪メトロ四つ橋線で西梅田駅まで帰りました。

加賀屋の地名は、江戸時代の人で、両替商から新田開発者に転じた加賀屋甚兵衛による「加賀屋新田」に由来します。

(後編につづく)