餘部駅からの帰り道 | 鉄道で行く旅

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余部橋梁のお立ち台(撮影スポット)からの撮影です。

この日の撮影目的であった鳥取行の普通列車を撮影しました。

 

餘部駅と鳥取行の普通列車です。

 

坂道を下り、道の駅「あまるべ」に向かいました。

道の駅「あまるべ」で少しだけ土産物を購入しました。

 

もう一度、旧余部橋梁を見た後、空の駅に戻りました。

旧余部橋梁に取りつけられている「土木学会選奨土木遺産」のプレートです。

 

余部クリスタルタワーの地上階の入口です。

 

エレベーターで「空の駅」まで上昇します。

 

エレベーターの中から見た余部漁港付近です。

 

余部橋梁付近にある「TWILIGHT EXPRESS 瑞風(みずかぜ)」のための専用標識です。残念ながら「瑞風」に乗る余裕はございませ

 

餘部駅から城崎温泉行のディーゼルカーで香住に向かいました。餘部駅から、この列車に乗車したのは私だけですが、クルマで餘部駅まで来ている撮影者は結構いました。

 

帰りのディーゼルカーから、もう一度眺めた余部漁港付近です。

 

帰りの「きっぷ」です。餘部駅が無人駅ですので「eきっぷ」を餘部駅で受け取ることができないため、旅行開始前に大阪駅で帰りの「きっぷ」も受け取っています。

また、播但線を経由するはずの乗車券が、それよりも安価な福知山線経由になっています。これは、「特定列車による運賃・料金計算の特例」という制度であり、列車を限定しての料金計算特例です。この特例制度により「特急はまかぜ号」が走る播但線経由よりも安い福知山線経由の料金で「特急はまかぜ」に乗車しても構わないというルールになっています。昭和時代の時刻表を確認したら、その当時は「特急はまかぜ」と「急行但馬」が「列車特定区間」の適用を受けていましたので、臨時列車が設定されたときには、その都度、臨時列車(かつての「マリン但馬」など)に、この制度が適用されていたはずです。

・2020年6月現在「特定列車による運賃・料金計算の特例」を受けることができる定期列車は、全国でも「成田エクスプレス」と「はまかぜ」の2つの列車だけです

1.特急〔成田エクスプレス〕

代々木以遠(新宿方面)~錦糸町以遠(千葉方面)の各駅相互間を途中下車しないで直通乗車する場合は、中央本線(四ツ谷、御茶ノ水)経由で計算します。また、赤羽以遠(大宮方面)~池袋以遠(新宿方面)の各駅相互間を途中下車しないで直通乗車する場合は、十条経由で計算します。

2.特急〔はまかぜ〕
尼崎以遠(大阪方面)~和田山以遠(城崎方面)の各駅相互間を途中下車しないで直通乗車する場合は、福知山線経由で計算します。

 

香住駅で普通列車から「特急はまかぜ」に乗り換えます。香住駅の駅舎は1959年(昭和34年)に改築されたものです。

 

香住駅のホーム屋根を支えている古レールを転用した柱です。

陽刻は「(丸にSのマーク)  30 A 1931  I 」ですので、官営八幡製鉄所が1931年(昭和6年)に製造した30kgのレールです。

 

1985年に廃止された倉吉線では重軌条化が行われないまま、脆弱な規格の30キロレール(30kg/m)が最後の日まで使用されていました。

歴史学者でレールファンだった原田勝正(1930年~2008年)氏の著書によりますと、山陰本線でも昭和50年(1975年)頃までは一部の閑散区間で30キロレールが残っていたようです。

 

香住駅から乗車したキハ189系です。

 

キハ189系の車内です。

 

キハ181系時代の「特急はまかぜ」には何度も乗車していますが、このキハ189系には初めての乗車でした。

キハ189系の基本編成は普通車だけの3両編成です。繁忙期に限り6両編成になります。

 

車窓から見た円山川の対岸にある玄武洞です。昭和時代に2回、玄武洞を見学したことがあります。2回とも玄武洞駅側から舟で円山川を渡りました。

 

播但線に入り、生野の峠道に差しかかるところです。

 

播但線の生野駅と生野トンネル付近の空中写真です。(出典:国土地理院)

 

生野トンネルに入っていくキハ189系です。

 

この駅から和田山側に向かう方向が生野トンネル内にサミットがある上り勾配(列車ダイヤでは下り列車)のため、変則的な右側通行の駅構内になっている生野駅です。

現在の特急はまかぜ号の播但線の停車駅は、福崎駅、寺前駅、生野駅、竹田駅(ただし季節停車駅)の4駅になっていました。

私が利用していたころの昭和時代の特急はまかぜ号は姫路から和田山まで営業上はノンストップ(単線区間のため運転停車はありました)で、その代わりに急行但馬が福崎駅、寺前駅、生野駅、新井(にい)駅に停車していました。

 

播但線を走るキハ181系時代の特急はまかぜ号(1991年頃)

 

播但線を走るサロンカーなにわ(1991年頃)

 

播但線

急行但馬と生野トンネル(1971年3月)

あまるべ荘まで「かにすき」を食べに行っていた頃でも、最初の頃は急行但馬を利用していました。

 

播但線

和田山方面に向かうDD54とC57重連の貨物列車です。ここからすぐに勾配区間が始まるため、直線で発進できる側の軌道を和田山方面行の列車が使用しています。(1971年3月)

 

播但線

生野トンネルの和田山側です。(1971年3月)

 

播但線

生野駅に到着する姫路行の列車です。(1971年3月)

 

続いて、現在は未電化区間と電化区間の境界駅になっている播但線の寺前駅です。キハ47を両運転台化したキハ41の2000番台の「いかつい顔」を久しぶりに見ました。

 

1999年3月に和田山駅で撮影したキハ41の2000番台です。改造当初はワインレッドの豊岡色(播但線色)でしたが、いまは朱色5号(首都圏色)に戻っているようです。

 

2018年3月に撮影した寺前駅です。

キハ40の「天空の城・竹田城跡号」

 

播但線2両運転用の103系3500番台です。(2018年3月)

 

播但線

播但線

播但線の昔の写真です。(1971年3月・寺前駅付近)

 

寺前駅

播但線寺前駅のC11です。当時は客車列車のうち姫路から和田山までの直通列車は豊岡区のC57が牽引し、姫路から寺前までの区間運転列車(通勤通学圏列車・・・つまり現在の電車区間)は姫路一区のC11が牽引していました。(1971年10月)

 

播但線の福崎駅に掲示されている「柳田國男生家」の案内です。

民族学者の柳田國男(1875-1962)は飾磨県神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)の生まれで、儒者で医家の松岡操の六男・松岡國男として生まれました。1901年(明治34年)5月に柳田家(養父・柳田直平 * )の養嗣子として入籍したために柳田姓に変わっています。

* 國男の養父の柳田直平(1849-1932)は大審院判事(現在の最高裁判所の裁判官)でした。

 

京口駅付近から見た姫路城です。

 

1971年頃の姫路駅付近です。右側の道路橋は「内環状東線」だと思います。

この三重連は、冬季に運行されていた臨時列車用のC57の送り込み回送のために三重連になっていたものです。

 

姫路駅

懐かしの高架化前の姫路駅です。(1969年11月)

 

この後、終着の大阪駅までキハ189系の特急はまかぜ号に乗車しました。(2010年10月撮影・姫路駅に展示された新車時のキハ189系です)

 

参考画像:繁忙期の6両編成のキハ189系の特急はまかぜ号です。(2018年3月 姫路駅)

(おわり)