京阪電車淀駅周辺を歩く(前編) | 鉄道で行く旅

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「思い出の京阪電車旧淀駅」の続編として高架化後の淀駅周辺を歩きました。今回は前編です。

淀屋橋駅から樟葉駅まで京阪特急を利用しました。

 

緊急事態宣言が解除されたとはいえ、プレミアムカーは空いていました。

 

樟葉駅前の「くずはモール」で昼食をとりました。

いつも同じことを書いていますけれども、1980年頃の樟葉駅前です。

 

改築前の「くずはモール」に置いてあったD5151を「くずはモール」で撮影した記憶があるのですが、どういうわけかフィルムが見つかりませんでした。(画像は2002年に嵯峨野観光鉄道移転後のD5151です。・・・今は解体済み)

 

昼食後、樟葉駅から普通電車で淀駅まで移動しました。

この日は、淀まで行く用事があったので、ついでに淀駅の周辺を散策しました。

(注:本投稿の画像については緊急事態宣言よりも前に撮影した写真を含んでいます

石清水八幡宮駅の上り第一場内信号機と第二場内信号機です。上り・下りとも待避線は撤去されていますが、どちらも場内信号機および出発信号機が健在です。

 

高架になっている淀駅の手前で江戸時代の淀城跡の前を通過します。高架になる前は淀駅の上りホームが隣接していた場所です。

 

淀駅から見た京都・出町柳側です。右奥に京都競馬場のスタンドの建物が見えています。

 

淀駅の下りホームから見たスタンドとレースコースの一部です。コースの中央に池があります。

競艇場前の駅(尼崎センタープール前や住之江公園駅)よりも開放的ですが、ここからでは競馬の観戦は無理です。

 

下りの特急が通過していきました。

 

上下線ともに待避線がある淀駅の高架ホームです。

 

高架化後の淀駅の平常時(競馬場用の反対側)の改札口付近です。

 

淀駅の大阪方にある安養寺の「淀川渡船場径(みち)」の石碑です。

この石碑は、淀駅の高架化前は京阪の淀踏切(市道淀187号線)の踏切遮断機の横にあったものです。

・弥陀次郎開基 十一面観世音尊像 一口村 安養寺 是南十五丁
・東南 淀川渡場径 渡舟場十丁 相島十八丁 坊池廿丁 一口村十四丁 森十九丁  巨椋湖十五丁 中島十七丁 野村廿三丁
・西南 淀大橋径 美津五丁 生津十五丁 佐古一里 川面六丁 下津屋廿五丁 林一里二丁 藤和田八丁 田井廿三丁 島田十五丁
 昭和三年春 亰都 三宅安兵衛依遺志建之

 

京阪本線の高架線とセンダンの大木です。センダンの花が咲いていました。花の香りが周囲に漂っていました。

 

このセンダンの木の場所は、高架になる前の旧淀駅の上りホーム駅舎の横でした。(2004年)

 

淀城跡にある與杼神社(よどじんじゃ)です。
元々は淀川対岸の水垂(みずたれ)にあった『水垂社』でしたが、1900年(明治33年)の淀川改修工事のときに淀城跡に移築されたのが現在の與杼神社です。

 

1607年(慶長12年)に建築された與杼神社の拝殿です。国の重要文化財に指定されています。

 

かつては與杼神社本殿も重要文化財でしたが、その旧本殿は1975年に焼失しました。現在の本殿は1980年に再建されたものです。

 

こちらは境内末社のように見えてしまう稲葉神社です。

1885年(明治18年)に稲葉氏淀藩の旧家臣たちが創建した稲葉正成(藩祖)公を祀る神社です。

 

稲葉神社の本殿です。

 

徳川秀忠(徳川二代将軍)の命により1625年に竣工した江戸時代の淀城跡です。

1723年に佐倉藩から山城淀藩に移封された、春日局の子孫である稲葉正知が淀藩主になり、それが明治時代の廃藩置県まで続きました。

一番右の石碑の「唐人雁木跡」の文字の意味ですが、「唐人」は江戸時代の「アジア系外国人」の総称でした。ここでは「朝鮮通信使(朝鮮国から江戸幕府に渡す国書を持ってくる大使一行のようなものです)」を唐人と呼んでいます。「雁木」は淀川の船着き場から、この地に上陸するとき(または帰りに乗船するとき)に利用した桟橋のことです。「雁木」の名称は雁が飛ぶときの編隊の形から名づけられたものです。

注:「唐人雁木跡」と「淀小橋旧趾」の石碑は現地から撤去された旧碑です。現地には新しい石碑が建っています。

 

淀城の石垣の上です。

 

ここは鉄扉があるところです。鉄扉の隙間から撮った写真です。

この先に進むことができませんでした。

 

淀城の石垣の上から見たセンダンの花と京阪の3000系(2代目)です。

 

淀城跡と高架線を走る京阪1000系です。

 

同じ場所で撮影した高架になる前の淀駅です。(2004年)

 

明治天皇御駐蹕の碑です。

明治天皇が1868年(慶応4年)3月21日に、『親征』により「大坂(*)」の天保山の海軍観艦式場へ行幸される途中、この淀城で休憩されたことを示す石碑です。

*江戸時代でも大坂と大阪が混在してはいましたが、正式な地名としての「大阪」の使用は明治元年5月2日に大阪府が設置されたときが最初です。

 

大坂(大阪)の天保山の「明治天皇観艦之所」の碑です。

画像の石碑は、1868年(慶応4年)3月26日に、この天保山台場から明治天皇が観艦式に臨まれたことを示す記念碑です。(2018年10月撮影 天保山)
このときは東京奠都(とうきょうてんと)の前でしたので、明治天皇の行幸は京都御所から大坂の範囲でした。まだ鉄道がない時代でしたので、京都と大坂の移動の途中で、石清水八幡宮と守口の難宗寺(浄土真宗本願寺派)で明治天皇がお泊りになりました。守口に泊まったときの内侍所(ないじどころ ・・・ 三種の神器の安置場所)には盛泉寺(真宗大谷派)が選ばれています。
また、大坂では本願寺津村別院(北御堂・・・浄土真宗本願寺派)が明治天皇の行在所(あんざいしょ)になっています。

 

天保山の観艦式のときの艦船は電流丸(肥前藩の軍艦)、万里丸(肥後藩の軍艦)、千歳丸(久留米藩の輸送船)、三邦丸(薩摩藩の輸送船)、華陽丸(長州藩の輸送船)、万年丸(安芸藩の輸送船)の6隻とフランス軍艦デュープレックスでした。戊辰戦争中のため官軍の主力艦「甲鉄・・・後の東(あずま)」「春日丸」「長陽丸」などは参加できませんでした。(2000年2月撮影 天保山)
1929年(昭和4年)に建てられた天保山の「明治天皇観艦之所」の題字の揮毫者は閑院宮載仁親王(1865年~1945年・揮毫時は陸軍大将)です。

大阪市渡船の安治川の天保山渡船の左後方に見えているのが「明治天皇観艦之所」の碑です。(2000年2月撮影 天保山)

 

淀城跡に一部だけ残っている濠の西側の部分です。江戸時代の淀城には二重・三重の濠があり、城の南西と北側の2カ所に大きな水車が設置されていました。

 

13号京都守口線にある淀の川瀬の水車(みずぐるま)旧跡の石碑です。

江戸時代の淀の水車は直径が8mもあるもので、淀の名物でした。その「淀の水車」の名は、日本国内だけではなく日本と交流があった琉球・朝鮮・オランダ国にまで知れ渡っていたことが書物に記されています。

 

淀駅の駅前にある京都淀ライオンズクラブが設置した「淀の水車」の再現物です。

ライオンズクラブの説明では「淀の水車」は2代目淀城主の永井尚政が1638年に城下を拡張し庭園を造った頃に設けられたと書いてあります。(引用者注:別の説によりますと、淀には天正時代の1586年頃に作られた農業用の水車が淀藩設置以前からあったそうです)

(つづく)