台湾鉄路環遊之旅(2003年)苗栗・台北・基隆 | 鉄道で行く旅

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2003年の台湾の旅の最終回です。

苗栗駅で自強号用の電車を撮影しました。これは台湾最初期の中長距離電車であるEMU100型です。

このEMU100型は1977年に製造された英国製です。運用開始(供用開始)は1978年です。

1987年製造のEMU200型(2003年にEMU1200型に改造)は南アフリカ共和国製で、1988年製のEMU300型がイタリア製です。

この100型・200型・300型の中で一番故障が少なかったのが南アフリカ共和国製のEMU200型(改造後のEMU1200型)です。

日本では知らない方が多いと思いますが、南アフリカ共和国の鉄道は、JR(山形線・田沢湖線などを除く在来線)や台湾鉄路管理局(民営で作られた高鉄を除く)と同じ狭軌(軌間1,067mm)です。南アフリカ共和国の鉄道は狭軌のスピード記録(電気機関車で245km/h)を持っています。また狭軌の蒸気機関車の世界最高速度記録は日本のC62が持っていますが、南アフリカ共和国は日本よりも高性能な狭軌用蒸気機関車を開発しており、蒸気機関車時代でも急行列車を112km/hの最高速度で運行していました。

 

この英国製のEMU100形は2009年に定期列車の運用から離脱しました。

 

英国の昔の電車(第3軌条集電)と顔つきが似ています。(1999年4月・イングランドのサウサンプトン駅で撮影)

 

苗栗駅で見た復興号です。台湾では、日本の準急列車に相当する復興号以上が優等列車であり、特急の自強号から準急の復興号までを対号(たいごう)と呼びます。対号が日本の優等列車で、非対号(非優等列車)である「区間車・区間快車・普快車」が日本の快速や普通列車です。

 

苗栗駅から台北駅まで乗車した日本の急行の相当するキョ光号です。

 

台北駅に着いた後、台北市児童交通博物館に入館しました。

台糖公司で使われていた367号機です。ベルギーのテュビズ社製です。

台湾の台南市の烏樹林糖廠で観光列車を牽引しているらしい動態保存機の台糖公司370号機も同じベルギーのテュビズ社製ですので、おそらく、この367号と同形機と考えられます。ベルギーのテュビズは都市の名前であり「AFCテュビズ」というサッカークラブ(2020年現在は2部リーグのチーム)があります。

 

これも台南市の佳里糖廠のモーターカー(事業用車両)を動態保存というよりも遊園地で実用に使っているものです。児童を乗せるトロッコの牽引機になっていました。

 

中華民国総統府です。日本統治時代の1919年に「台湾総督府」として建てられた建築です。

1895年の「台湾総督府」の設置当初は清国が行政庁舎としていた巡撫衙門と布政使司衙門が総督府庁舎として使用されました。

初期の台湾総督は現役の陸軍・海軍の将官(しかも有名な人物)が就任しており、初代の樺山資紀、2代目の桂太郎、3代目の乃木希典、4代目の児玉源太郎などは旧庁舎時代の台湾総督でした。

1945年に米軍の空襲で損傷(内部も全焼)しましたが、1948年に中華民国政府により復旧が行われました。その後、建物内部も大幅な改修が実施されているそうです。

 

台湾のMRT(地下鉄のようなもの)です。

この日は中山駅の近くにある「ホテル ロイヤル ニッコー タイペイ」に泊まりました。

このときの台湾の旅行ではホテルや滞在先の食事の写真を撮っておらず、あまり記憶に残っていないため書いていないだけです。

「ホテル ロイヤル ニッコー タイペイ」は5つ星ホテルで、部屋やサービスもかなりよかったと思います、

 

その翌朝です。

台北駅から韓国製のEMU500型の通勤電車に乗って基隆駅に向かいました。

 

ロングシートのカバーが大昔の日本のキハ17系などのような緑色のビニールシートでした。

 

当時の基隆駅の駅舎です。現在の基隆駅は再開発中であり、もっと立派な駅舎が作られているようです。

 

これも今は消滅して更地になっている、在りし日の基隆臨港線です。昔の横浜や大阪それに神戸の臨港線を思い出しました。

画像の中央が操車室(信号てこ扱所)のようです。小型ながらも現役の腕木式信号機がありました。基隆臨港線は、この2003年中に廃止されたように聞いています。

 

台湾でも現在は廃止になっている「鉄道小荷物(チッキ便)」の2003年当時の基隆駅の小荷物窓口です。

左奥にバイクが並んでいますが、これは当時はバイクも荷物車で輸送していたからです。台湾の朝の通勤時間帯はバイク(圧倒的にスクーターが多い)の大群が道路に溢れるぐらいのバイク王国ですので、こういうサービスを実施していたのでしょう、

日本では一般ユーザー用のバイク輸送はほとんどなく、せいぜいのところ、夜行列車で本人(ライダー)と一緒にバイクを輸送するモトトレールとかモトトレインだけだったと思います。

昭和時代の日本の国鉄駅でも1986年に鉄道小荷物輸送が廃止されるまでは存在しました。

ものすごく懐かしかったので撮影したものですが、台湾でも2019年2月に鉄道小荷物が全廃されたようです。

 

在りし日の台湾の荷物列車です。

 

インド製の普通車(普快車)用の客車も代用行李車(代用荷物車)として使われていました。

 

当時の基隆駅で見た、今の日本にはない「憲兵隊」車站分隊です。つまり「ミリタリーポリス(MP)」のオフィスです。よく分かりませんが「派出所」のようなものだろうと思います。(この画像は2003年には見ていながらも撮る勇気がなく2007年の再訪時に撮影したものです)

基隆は軍港の街でもあります。

この看板を見て、映画「動乱」(1980年・東映およびシナノ企画)で、陸軍大尉役の高倉健を尾行していた憲兵曹長役の米倉斉加年を思い出しました。

 

2003年の台湾の旅で乗った最後の列車は非対号である当時の「平快車」という快速列車でした。

まだ桃園MRTがない時代でしたので、桃園駅から桃園空港までタクシーに乗りました。

 

このときの平快車の客車は、昔の台湾の優等列車の対号特快車用だった回転クロスシートの客車でした。その成り立ちと設計が、日本のスハ44と似ている客車で、実際にも日本のスハ44を参考にして1957年に日本車輛で作られた客車だそうです。設計がスハ44よりも新しいためか、スハ44よりも近代的なノーシル・ノーヘッダーの車体でした。この時代は藍皮車への格下げ塗装が行われておらず復興号塗装のまま平快車の運用に入っていました。

 

日本のスハ44は、客車時代の特急つばめ・特急はと・特急はつかり・特急かもめ(←短期間)などの3等客車(設備は3等制時代の2等車並み)として1951年に投入された豪華3等客車でした。元々はシートが進行方向に固定されていて列車ごと方向転換していたのですが、後に回転クロスシートに改造され、グレードの高い客車急行の指定席車に使われていました。(私の記憶では新婚旅行客が多かったヨンサントオ時代の大阪・新大阪駅と日豊本線宮崎駅間の急行日南の普通(1・2等制時代の2等の)指定席車などを覚えています)

スハ44に似ている回転クロスシートの車内です。このときの台湾で一番感動した列車が、この「平快車」でした。

一旦は優等列車(再編後の対号)の復興号に転用され、そのときに非冷房車から冷房車に改造されています。

それが優等列車の復興号から格下げになっていたのが、このときの「平快車」の客車でした。

 

台湾の環境に合わせているので、モケット張りではなくビニールシートでした。

(完)