「新橋・汐留」今昔の記 | 鉄道で行く旅

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今回の記事は、1986年7月に仕事で上京したついでに撮影した「当時の汐留駅の0哩標識」の画像などです。

虎ノ門に本社があったIT商社(情報処理機器商社)との打ち合わせを終えた後、国鉄の貨物駅だった汐留駅(旧新橋駅)を訪問しました。現在は汐留シオサイトになっている場所の一角です。

1986年(昭和61年)11月1日に廃止される直前の当時の貨物駅の汐留駅です。

新橋~横浜間の鉄道開業時の起点を示す0哩(マイル)標識が復元されていました。貨物駅は立入禁止ですが、この部分は公開されていました。

1934年に「本邦鉄道起源地」として設置されたのが、この0哩標識付近の再現モニュメントです。

さらに、1965年に現在の文化庁に相当する文化財保護委員会により、国の史跡「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」に指定されていました。

(注:日本の鉄道がメートル法を用いるようになったのは1930年(昭和5年)4月1日からで、1872年から1930年までの58年間はヤードポンド法を使用していました)

 

明治時代の新橋駅

明治時代の浮世絵師である小林清親の東京名所図の傑作「新橋ステンション(ステーションの意味)」です。

初代の横浜駅の駅舎も、この新橋駅と同じデザインでした。

 

2016年11月に大宮の鉄道博物館で撮影したバルカン・ファウンドリー製(開業前年の1871年製)の1号機関車です。

 

新橋~横浜間の鉄道開業時の7号機関車です。

ガラスの反射がもの凄くて、逆にここまで接近しないことには写すことができませんでした。

台湾の台北にある二二八和平公園に保存されている1871年に英国のエイボンサイド・エンジンで製造された新橋~横浜開業時の7号機関車です。(2007年)

台北の二二八和平公園の説明板です。1901年に日本から台湾に譲渡され台湾総督府鉄道部9号機として活躍した後、1925年に引退しています。(2007年)

 

2019年2月に撮影した青梅鉄道公園の国鉄110形です。新橋~横浜開業時のヨークシャー製(開業前年の1871年製)の10号機関車です。

この蒸気機関車も鉄道開業時に使用された10両の蒸気機関車の1両でした。

 

♪汽笛一声(いっせい)新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕(あたご)の山に入りのこる 月を旅路の友として (鉄道唱歌から)

シャープ・スチュアート製の「明治村12号機」は新橋~横浜間の開業2年後の1874年に輸入された23号機でした。

現在の「12」号機の意味は1911年に名古屋鉄道尾西線の前身である尾西鉄道に払い下げられ尾西鉄道12号機になったからです。

 

左側が1900年頃の地図です。院電(山手線の前身)の烏森駅(現在の新橋駅)が地図上にありますので1909年以降の地図だと思います。

まだ新橋駅は下り方面の汽車の始発駅でした。

1914年(大正3年)12月20日に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移ったときに、新橋駅から汐留駅に駅名が変わると同時に貨物専用駅(荷物を含む)に変わりました。これと同時に、電車線の駅であった烏森駅が、新橋駅(2代目)に改称しています。

烏森は「新橋駅烏森口」に、その名前が残っています。

 

1986年に汐留駅で撮影した「史跡 旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」です。

枕木は日本の国内事情に合わせて当初の予定の鋳鉄製の枕木ではなく、安価で入手が容易な国産の松材の枕木が使われました。

 

復元なので正確に再現されているかどうかは不明でしたが、本来なら錬鉄製のはずの双頭レールです。ここでは、独特な形状の「チェアー」という名の締結用具によって双頭レールと枕木が締結されていました。双頭レールは、設計上では、表側がすり減ったら裏側を使うというものでした。実際には裏側の利用は困難だったようで、しばらくして平底レールに置き換わっていきました。(1986年)

 

参考画像:摂津富田駅の古レールの支柱

1872年(明治5年)の新橋~横浜(桜木町)開業時に使われた双頭レールを転用したと考えられるJR摂津富田駅のDARLINGTON IRON Co70 IGJRの陽刻入りのプラットホーム屋根の支柱です。(2018年5月)

 

貨物駅の国鉄汐留駅は最晩年に限定的なものながら旅客輸送が復活しました。今思い返すと「黄昏の赤いきらめき」とか「線香花火が燃え尽きる直前のかがやき」のようなものだったのかもしれません。

それが、画像のオレンジカードに描かれたカートレインの運行開始によるものでした。このオレンジカードは上京時に新橋駅か有楽町駅かのどちらかで購入したものです。

1985年(昭和60年)7月27日に汐留駅~東小倉駅間でカートレイン(初期は「カートレイン」で、他方面への類似列車が運行されるようになってから「カートレイン九州」に改称)の運行を開始しました。ただし、旅客の駅への入出場はカートレインに有効な乗車券類所持者に限るというものでした。
1986年(昭和61年)11月1日の汐留駅廃止後は「恵比寿駅→浜松町駅」の順に東京方の乗降駅が変わった後、クルマのサイズの大型化傾向による車載可能車の制限問題などにより人気が下がったため、このカートレイン九州は1996年に廃止されました。

個人的には、カートレイン一族の中では、ツーリング客輸送の「MOTOトレイン」と「モトとレール」のネーミングセンス競争(?)の印象が、カートレインよりも強い記憶として残っています。

 

1997年に「ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線」に初めて乗ったときの画像です。

新橋駅の仮駅(延伸前)で営業していた頃の「ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線」の初期段階の新橋駅です。

年の瀬で、寒くて、風が強かったことを覚えています。

 

このときは初めて「お台場」の砲台跡を見に行ったのでした。

 

たまたま「ゆりかもめ」の新橋駅(当時の仮駅)から目にした汐留駅跡(旧新橋駅跡)です。

ちょうど、後に「シオサイト」になる予定地で旧新橋駅の遺構の発掘調査が行われていた時期でした。

 

まだ「史跡 旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」も、遠目には昔のままのようでした。

たしか、1996年(平成8年)12月10日に文化庁の史跡としての指定地域の一部解除・追加をし、「旧新橋停車場跡」へ名称変更した翌年のことです。

 

2003年(平成15年)に開業当時の新橋駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられ、同年4月10日に開館しました。

2003年の開館当初の「旧新橋停車場」の画像です。

 

2013年7月に宿泊したコンラッド東京から見た浜離宮恩賜庭園です。部屋の窓からレインボーブリッジも見えました。

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2013年12月に宿泊した帝国ホテル東京から見た新橋から汐留の風景です。

 

初代の横浜駅にも触れておきます。

今は思い出の東急東横線の桜木町駅です。(1999年)

 

JR桜木町駅(初代横浜駅)です。(2020年1月に追加取材)

♪鶴見神奈川あとにして ゆけば横浜ステーシヨン 湊を見れば百舟(ももふね)の 煙は空をこがすまで(1900年発表の当初の鉄道唱歌)

 ↓(1911年に旧・横浜駅を通過する歌詞に変更されました)

♪神奈川過󠄁ぎて平󠄁沼の あなたを見みれば百船󠄂(ももふね)の  煙󠄁は空󠄁をこがすまで ここ横浜の大港󠄁 (1911年に訂正後の鉄道唱歌)

左側の地図は東海道本線の短絡線上に横浜駅(頭端式)に立ち寄らずに横浜駅をパスする列車のための平沼駅が設けられていた時代の地図ですので1901年から1915年の間ということになります。

 

「鉄道山」と呼ばれた横浜の掃部山公園(江戸時代の不動山)

新橋~横浜(桜木町)間の鉄道開通に携わったエドモンド・モレルなど外国人鉄道技師の官舎が建てられ、開通後も鉄道用地として利用していたことと、この山の湧水が蒸気機関車に給水されたことから、明治初期は「鉄道山」と呼ばれていました。
この公園は、1884年(明治17年)に旧彦根藩士が買い取って井伊家の所有になり、1909年(明治42年)の横浜開港50年を記念して井伊(掃部守頭)直弼の銅像が建立されました。そのときから、直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)から「掃部山(かもんやま)」と呼ぶようになっています。

 

初代横浜駅は旧新橋駅よりも仮開業の時期が早く、実態として「本邦鉄道起源地」にふさわしい場所です。

中川浩一氏の「鉄道記念物の旅」とWikipediaの双方を参考にすると新橋~横浜間の正式開業までの経緯は次のとおりです。

1.1872年6月12日(旧暦の明治5年5月7日):品川駅~横浜駅(現・桜木町駅)の鉄道路線が仮開業し、品川駅と横浜駅(初代)が仮開業した。

初代の横浜駅です。

 

2.1872年10月14日(旧暦の明治5年9月12日)、新橋~横浜(現・桜木町駅)間に日本初の鉄道が正式開業した。

新橋~品川間の開業の遅れは、高輪地先の海面埋立工事が難航したためでした。

また、明治政府が新橋駅~横浜駅間の開業式典における明治天皇の開業宣言(みことのり)にこだわったため、品川~横浜間の先行開業を仮開業にしておきたかったものと推測されています。

正式開業日の1872年10月14日に明治天皇のお召し列車が新橋から横浜まで往復し、翌日の10月15日に新橋から横浜までの正式営業が始まりました。

 

↓横浜(2008年11月)

(完)