阪神北大阪線の廃線跡を歩く(前編) | 鉄道で行く旅

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1975年5月に廃止された阪神北大阪線の廃線跡を歩いたときの記録です。

注:この取材は2018年5月のものであり、この記事の公開時には現地の様子が変わっている場合があります。

東梅田駅からOsaka Metro谷町線で天神橋筋六丁目に向かいました。

 

天神橋筋六丁目です。大阪市電の電停名以来の略称習慣により、大阪人は「天六(てんろく)」と言います。

この略称は「谷四」「谷九」「上六」などと同じ略し方です。

 

昭和40年代頃のデザインが残るOsaka Metro天神橋筋六丁目駅です。現在は谷町線と堺筋線の連絡駅です。

 

阪急OASISになっている阪急(元・新京阪鉄道)の天神橋駅跡です。

小学生のときに、ここにあった天神橋駅から阪急電車に乗ったことが2度ありますが、まだカメラを使うことができる年齢ではありませんでした。

 

Osaka Metro(旧・大阪市交通局)の地下鉄堺筋線・谷町線が開通する前の「天六」付近の地図です。

まだ地下鉄はなく、阪急天神橋駅(地上のターミナル駅)、大阪市電の天六電停、阪神の北大阪線の電停がありました。また、大阪市のトロリーバスも走っていました。

 

現在の天六の交差点です。(2018年)

 

1969年3月に天六の交差点で撮影した全廃直前の大阪市電です。

このときは、この道路の下で堺筋線の建設工事が行われているときでした。堺筋線は1969年12月に開通しました。

この1年後の谷町線の東梅田~都島間延伸工事のときにガス爆発の大事故が、この近くで発生しました。(事故は1970年で、この区間の開通は1974年)

 

阪神北大阪線の天六(天神橋筋六丁目)の電停跡付近です。

 

阪神北大阪線の中津~天六間の利用は、たったの一度だけでした。この電車に乗るために、あわててシャッターを切ったら、ピントが合っておらず、しかもフレームに電車が納まっていない大失敗写真でした。ここから北大阪線に乗ったという証拠写真ではあります。

 

北大阪線の路線を継承した感じになっている阪神バスのバス停です。

 

昔の電停名と同じ「本庄中通」でした。「野田阪神前」は大阪シティバス(元大阪市バス)に合わせたバス停の名称であり、大阪市電以来の「阪神電車の野田駅前」を短縮したものです。この名称は地下鉄駅名の「野田阪神」やバス停名「野田阪神前」になっている地域名でもあります。阪神電車の駅名は単純に「野田駅」です。

現在の阪神バスの、この路線の運行ダイヤは画像の右端のとおり1日に2本だけです。今は、免許維持のための運行のようです。

阪神バスは2023年12月21日(木)、国道2号と大阪市内を走る一部路線について、運行を休止すると発表しました。休止は2024年1月13日からです。

 

南浜付近です。

 

ちょっと気になるVIPなセンチュリーです。

 

JRの東海道本線(愛称が京都線の部分)が見えてきました。

 

大阪駅の前後の2カ所で、かなり急な曲線区間を走り、新淀川を2回も渡る(*注)東海道本線です。

これは大阪駅を作るときに工部省(JRの前身)が大阪駅を通過式にすることに決めたからです。

(*注)明治初期の鉄道開業時には、まだ新淀川はありませんでした。

 

1872年(明治5年)に鉄道頭・井上勝が工部省に提出した2案の概略図です。

乙案が、その当時の欧米の主要駅では必ずこういう設計になっていた大阪駅を頭端式にするルートのイメージ図です。ただし、乙案の正確なルートを記入しているのではなく、おおよその形を示すものです。

注:本当の乙案は神崎(現在の尼崎)で上りと下りが分岐するという案だったようです。東京方面は神崎(尼崎)から神崎川の右岸に沿って吹田に至るという案でした。また、この地図も大阪駅開業時の地図ではありません。

甲案は、ほぼ現状のとおりです。

乙案の補足説明として、乙案(黄色の部分)の頭端式の大阪駅は堂島川の舟運と接続するために堂島に大阪駅を設置する予定でした。

比較検討の結果、甲案の通過式にして大阪駅を梅田に設置したため、堂島川から大阪駅までは運河を作り、舟運と接続させたのが2代目までの大阪駅(貨客併用駅)です。

 

↑ヨーロッパの頭端式駅の例(フランクフルト中央駅)

原則としては街の外れにあり、市街地の公共交通機関は「馬車→トラム・バス・地下鉄」で行い、とくに高架になる前の鉄道においては市街地を分断しない構造にしておくのが欧米方式の伝統的なターミナル駅です。

鉄道開業時の大阪駅(梅田ステーション)は市街地の北側の辺鄙な場所にあり、上り線と下り線に向かう方角の地理的な環境からも、設計段階の当初は欧米式の頭端式ターミナル駅を採用しようとしていたようです。

その大阪駅を頭端式にせずに通過式にしたのは明治初期に頭端式で作った旧新橋駅や旧横浜駅などが開業後に(少なくとも日本人の感覚では)不便な構造であることがわかったからでした。この大阪駅の位置決定において、初めて欧米方式から離脱して、通過式の主要駅を採用したのです。

また、頭端式という言葉はドイツ語でターミナル駅を意味するKopfbahnhofを翻訳したものだろうということです。(Kopfが頭でbahnhofが鉄道駅)

(原田勝正著「駅の社会史」を参考にしました)

ところが、ベルリンの壁崩壊後に作られ、2006年に開業したベルリン中央駅では長距離路線も通過式になっており、市街地の路線と立体構造で乗り換えが可能です。つまり、ベルリン中央駅は旧来の欧米方式から脱却したターミナル駅になっているのです。

 

シュツットガルト中央駅も頭端式から通過式への大改造工事中です。

 

豊崎にある浄土宗の源光寺です。梅田界隈は茶屋町までならよく知っていますが、豊崎に、こういう立派な寺院があることは知りませんでした。

 

新御堂筋の下を通った左側が茶屋町です。毎日放送(MBS)が見えてきました。

 

阪急電車と済生会中津病院が見えます。

この現在の阪急本社の近くに北野電停がありました。大昔の電停名は女学校前でした。女学校というのは梅花高校の前身の梅花女学校のことです。

1908年(明治41年)から1926年(大正15年)の豊中移転まで、この北側に梅花女学校の校舎があったのです。

(つづく)