バカラ村を歩く(後編) | 鉄道で行く旅

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バカラ村の「バカラのクリスタルのミュゼ(Musée du Cristal)」の開館時間は、火曜日から土曜日の午前10時から12時までと午後2時から午後6時までです。このミュゼはパリ16区にあるバカラのミュゼとは別の施設です。

ミュゼは、この階段の上にあります。ええい、このバカラの旗印が目に入らぬか!?

バカラの地名の由来はクリスタル工場を誘致した司教(村長でも事業経営者でもない人)の寺院の祭神だったバッカス(Bacchus : 葡萄酒の神)に由来するそうです。その関連性は不明ですが、バカラのワイングラスでワインを飲むとワインが美味しくなるような気がします。

バカラ村がクリスタルを生産するようになる前の18世紀中期のフランスには高級ガラス製品がなく、フランスはボヘミアからガラス製品を輸入していました。

 

バカラ村はルイ15世が国王の時代に、国王から認可を受けて、それまでのバカラ村の産業だった製塩業(製塩のための資源が枯渇したため廃業)に代わってクリスタルの生産へと転換しました。ここのクリスタルの工場群は1765年の創業ですから、約250年の歴史を持っています。

厳密にいうと1765年から1816年までのバカラは普通のガラス製品の生産にとどまっており、高級なクリスタル製品の生産を開始したのは1817年のことでした。

瀟洒なデザインの工場の前庭周辺です。

 

道路側にある工場群の一部です。ちなみにバカラに住んでいる5,000人の住民は、ほとんどの家族が何らかの形でバカラ社の業務と関係しているそうです。

 

「バカラのミュゼ(Musée du Cristal)」の建物です。

(2023年10月追記)Google Mapによりますと、バカラの「バカラミュゼ」は閉鎖されたことになっています。

 

入館料を支払った後、念のために館員の方に、撮影が可能かを確認したところ、「撮影はOKです」という返事がありました。

バカラのシャンデリアです。入館者が見やすいように低い位置にあるため、目の前で見ることができます。

 

アレクサンドル2世のための豪華なクリスタルテーブルとクリスタルの花瓶です。この日は、花が生けられていませんでした。

 

それほど大きな美術館ではないものの歴史的な名品が揃っていました。画像は19世紀の1855年頃の製品です。第1回のパリ万博の頃のものです。

バカラのクリスタル製品を諸外国の王族・貴族・豪族が買い求めるようになった理由は、1855年から1900年にかけて5回も開催されたパリ万博にバカラがクリスタル製品を展示したことによるものでした。パリ万博のおかげでバカラの知名度が急激に上がったのです。

 

水が出ているので噴水でしょうか?

 

これはパリを象徴する重量級クリスタルのオブジェ「海とボート」と、いわゆる「マハラジャテーブル」です。1900年のパリ万博出展品を復刻したものだと思います。

 

1900年代初期の香水容器類です。若い頃に読んだ、ある作家のエッセーに「なぜ、この香水が高いのかと言うと、それはバカラ製の香水瓶を使っているからなのだ」と書いてあったことを思い出しました。

 

これは明治天皇やロシア皇帝などに納品したものと同等品のクリスタル製品を並べているということでした。

 

バカラの要人顧客の肖像の中に明治天皇の肖像画が入っていました。日本人客に対するバカラ社のサービスというよりも、お得意様の日本を大事にしているということなのでしょう。

♪御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の 大(おお)みことのり 伝(つと)うれば ・・ (水師営の会見から)

 

バカラ駅まで戻りました。

 

昔はバカラ村の生産品を花の都などに送り出したのであろう倉庫や側線跡が残っていました。

♪都へ積み出す 真っ赤なバカラ~ (の箱かな?)

 

無人駅だと思っていたバカラ駅でしたが、駅のホームのベンチで休憩していたら、駅舎の中から普通のおじさんが出てきました。

無人駅ではないようなので、駅舎に侵入してみました。

バカラ駅の待合室です。カラーディスプレイの列車時刻案内を除くと、駅舎内は戦前のデザインを復刻したような感じです。

 

バカラ駅の出札口の区画です。

ところが16時頃に駅員が待合室に出てきました。その様子では、どうやら16時で窓口業務は終了のようでした。フランス語は理解できませんでしたが、駅員が両手で大きな金属製の閂(かんぬき)を持っていたので待合室などを閉鎖するのであろうことが分かりました。

 

まだ乗車する電車が来るまで40分ほどあったのでバカラ駅の出発信号機を観察したら、日本にはない不思議な信号が現示されていました。

4灯式の出発信号機です。赤(R)が同時に2つも点灯していたのです。RR信号というのでしょうか。

とりあえず写真を撮っておいて、帰国後にRR信号の意味を調べました。

 

さすがに日本語のサイトには情報が出ていませんでしたが英語やフランス語のサイトから情報が出てきました。

【以下は上の画像とは別のフランス語のサイトに書かれていた内容を翻訳した結果です】

『危険地点、トンネル、駅への電車の路線の設定、間違った線上の長いブロック、カテナリーセクションなどを保護している信号の絶対停止を示すために、フランスは赤と白の正方形のボードを使用しました。このボードは常に絶対的な停止、つまり停止と滞在を示します。』(引用はここまでです)
フランスでは停止信号とは別に「停止と滞在(絶対停止)」信号というものがあり、元々は「赤と白の正方形ボード」を駅員(助役以上か?)が設置していたようです。そのボードの設置と取り外しの作業をやめて、赤色2灯に変えたのが、このRR信号なのでしょう。
日本の4灯式信号機の場合には、上からYRGYの順ですが、このフランスのバカラ駅の4灯式信号機はRYGRの順になっていました。
また、日本の鉄道信号の同色の2灯同時点灯は警戒現示の「YY」と北越急行ほくほく線および京成成田スカイアクセス線の高速進行現示である「GG」だけです。
バカラ駅の同じ出発信号機が進行(G)を現示しているときの画像です。これはバカラ駅に着いた直後の往路時に撮影したものです。日本の運転士が喚呼する『出発進行』とか『場内減速』などというのは、信号機の現示を確認したという意味です。

 

バカラ駅で撮影した対向列車です。この線の車両は製造初年が2005年のZ27500型で、直流1500Vと交流25kV(50Hz)の両電化区間用です。

 

これが乗車したナンシー行の列車です。往路と同じ編成でした。

 

ローカル列車(TER)の車内の1等席の区画です。

 

ナンシー駅の駅舎のうち古い駅舎の部分です。フランスの大きな駅には必ずあるPAULの店舗も入っています。元々はフランスのパン屋だったPAULは今や英国や日本でもよく見ます。

 

ナンシーでTGV inOuiに乗り換えてパリ東駅まで帰りました。

(つづく)