青森の旅(青い森鉄道編) | 鉄道で行く旅

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青森空港からJRバス東北のリムジンバスで青森駅に向かいました。中国人観光客が目立ちました。

青森駅前です。

 

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸を見に行きました。中には入っていません。

 

【懐かしの画像】

函館・青森

青森駅から見た十和田丸です。(1986年)

 

東北・冬の旅

青森駅と摩周丸です。(1985年)

 

再び現在の青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸です。

青函連絡船の廃止時はJRマークでしたが元のJNR(国鉄)マークに戻されています。

このJNRマークは1958年の東海道本線(在来線)のビジネス特急こだま(20系電車→151系電車)の運行開始に合わせて全国公募で選定されたマークです。

 

津軽海峡冬景色の歌碑まで歩きました。

石碑の前までたどり着いたとき、突然、音楽が流れ出しました。しかも石川さゆりさんの『本人歌唱(録音)』でした。

個人的には石川さゆりさんの熱唱も悪くないと思いますが、北海道生まれのあがた森魚さんが歌う「津軽海峡冬景色」が好きです。

♪さ~よなら あ~なた~ 私は~ かぁ~えります~

 

メモリアルシップ八甲田丸から青森駅まで歩いて帰りました。

予定の電車に乗り遅れそうになり、青森駅の跨線橋を少しだけ走りました。

東北・冬の旅

青森駅の昔の画像(1985年)

青函連絡船時代に、列車から連絡船まで、多くの人が駆け足で移動していたことを思い出しました。(話が古いなあ)

 

【付録画像】

北海道関係の切符

青函連絡船の旅客名簿(緑色がグリーン船室用で白色が普通船室用でした)

 

青森駅では撮影時間がなかったため下車駅の三沢駅で撮った青い森鉄道の電車です。

 

思い出の野辺地駅を通ります。

野辺地駅付近の鉄道防雪林が見えてきました。

 

帰りの車内から撮った野辺地駅の画像です。

 

野辺地駅の鉄道防雪林は今なお現役の『生きている』鉄道記念物です。たいへん貴重な存在です。

 

以前にも書いたことをコピーして掲載します。

この防雪林は、1893年に「日本鉄道(旧国鉄の東北本線の前身会社)」が植林した鉄道防雪林の第1号で、1960年に鉄道記念物に指定されています。
埼玉県久喜市に「本多静六記念館」というのがありますが、その本多静六氏の功績のうちの一つが野辺地の鉄道防雪林なのです。
ドイツで「林学」を学んだ経験を持つ本多静六博士(1866-1952)が当時の日本鉄道の役員だった渋沢栄一氏に「鉄道防雪林の造林」を進言したところ、渋沢栄一氏(1840-1931)が、ほとんど即決の形で決断し、わが国初の鉄道防雪林の造林が実施に移されたということです。

 

【懐かしの画像】

函館・青森

中川浩一氏(1931-2008)の著書「鉄道記念物の旅」に、「一介の青年学者が、すでに実業界の重鎮だった渋沢栄一氏に進言するなどということは本来ならありえない。しかしながら、本多静六博士が渋沢栄一氏と同郷(同じ埼玉県)だったことに加えて、本多博士が当時は少数だった海外留学経験者なので渋沢栄一氏に造林を進言することができた」、「本多静六博士はドイツ留学帰途のカナダ太平洋鉄道で見た鉄道防雪林に感銘を受け、鉄道防雪林の有用性を確信していた」というような記述(少し要約しました)があります。

南部縦貫鉄道が走っていた頃の野辺地駅の南部縦貫鉄道のホームです。

 

南部縦貫鉄道のレールバスと鉄道防雪林です。

この鉄道防雪林の歴史にも伐採の危機がありました。戦後の米軍占領下時代に、国土復興のための木材に充てるとともに旧国鉄の収入(営業外収入?)を増やしたいという理由から1948年に鉄道防雪林の伐採計画が立てられ、その計画が新聞やラジオでも報道されました。その伐採計画をラジオ放送で知った本多静六博士(すでに静岡県の伊東で隠居生活中)が当時の運輸大臣(現在の国土交通大臣)宛の書簡で「伐採計画は無謀である」ことを説明し、伐採計画を阻止したといわれています。

(中川浩一氏(1931-2008)の著書「鉄道記念物の旅」から引用しました)

 

思い出の485系の特急はつかりと鉄道防雪林です。

 

つづく