「大塚切れ洪水」は、大正6年(1917年)に淀川の大塚地区(当時の三島郡高槻町大塚地区 ・・・ 現在の高槻市大塚町)の堤防が200メートルにわたって決壊し、右岸の淀川河口に至るまでの甚大な被害をもたらした水害でした。
この日は、その現地の高槻市大塚町に向かいました。
淀屋橋駅から京阪電車の乗り枚方公園駅へ。
快速特急「洛楽」が枚方公園駅を通過していきました。
途中で枚方宿の「鍵屋」の前を通りました。
「鍵屋」のうだつ(袖壁)に描かれている鍵の絵です。
枚方大橋に向かうために淀川の左岸に出てみると、枚方と寝屋川の合同消防出初式が行われていました。
消防防災ヘリコプターも飛来していました。
枚方市側から「枚方大橋」を渡って高槻市大塚町に向かいました。クルマやバスでは何度も渡ったことがある橋ですが、歩いて渡るのは初めてでした。京阪バスと枚方大橋の画像です。
高槻市大塚町付近の淀川右岸です。大正時代は高槻町大塚でした。
大塚切れの記念碑がある高槻市大塚町から見た対岸の枚方市です。関西医科大学附属病院が見えていました。
大塚切れ洪水記念碑(高槻市大塚町)
大正6年(1917年)10月1日午前8時40分、大塚の堤防が台風による連日の大雨により決壊し、高槻町(現在の高槻市)に甚大な被害をもたらしました。これが世に言う「大塚切れ」です。
高槻市教育委員会の説明です。
大塚切れ洪水記念碑の内容が読み易いように要約されています。
これを読むと、現在なら自衛隊が救援や復旧作業に出動するところですが、大正時代ですので陸軍の高槻工兵隊(高槻城跡に兵営があった工兵第4聯隊)などが水害の復旧に尽力しました。
淀川右岸の大塚切れ洪水記念碑を後にしました。
(つづく)