南海高野線紀見隧道 | 鉄道で行く旅

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泉北ライナーの新車に乗った後、南海高野線の紀見隧道を見に行きました。
先週、熱海の起雲閣で初代・根津嘉一郎氏と南海高野線の深い関係を思い出し、自宅の書棚にあった「民営鉄道の歴史がある景観I(佐藤博之氏・浅香勝輔氏の共著) ・・・ 古今書院・昭和61年発行」を再読しました。
この日は、その本に記されていた紀見隧道の扁額を見るために現地まで出かけたのでございます。

南海高野線の紀見峠駅に着きました。
 

紀見峠駅の難波(大阪)方にある紀見隧道です。左側が大正4年(1915年)3月11日に開通した単線時代以来の隧道です。(左側の隧道は現在は上り線用です。形状も開通時のままではなく複線化の際に大きな改築工事が行われています)
右側が昭和53年(1978年)4月4日に供用を開始した下り線用の新紀見隧道です。
 

たまたま下り列車が来ました。
 

上り線の紀見隧道の開口部の上から紀見峠駅方面を眺めたところです。
 

下り線の新紀見隧道の東側の道路から撮影した新紀見隧道の開口部です。
 

昭和53年(1978年)4月4日の下り線の新紀見隧道開通当時の南海電鉄社長の川勝傳氏の揮毫による「一路貫光」の扁額です。
川勝傳さんは昔あった南海ホークス(プロ野球の球団)のオーナーとしても有名でした。
 

続いて、元は大正4年(1915年)3月11日に単線で開通した側の現・上り線の紀見隧道の開口部です。軌道の西側の道路上からの撮影です。
 

初代・根津嘉一郎氏の揮毫で「紀見隧道 青山書」と書かれた扁額です。軌道の東側の道路上からの撮影です。


揮毫者名の「青山」は「せいざん」と読み、初代・根津嘉一郎氏の号でした。
この「号」というのは、茶人としての号です。鈍翁(益田孝氏)とか逸翁(小林一三氏)とか耳庵(松永安左エ門氏)などと同じです。根津嘉一郎氏の場合は、今は根津美術館になっている私邸が青山(あおやま)にあったことから、その地名を用いて青山(せいざん)と号したのです。
 
上りの紀見隧道前の西側軌道脇にある石碑です。これも元は旧紀見隧道(現在の上り線の隧道)の紀見峠駅側の開口部の上部に埋め込まれていたものですが、隧道の改築のときに、ここに移設されました。

旧紀見隧道の完成記念の石碑です。
この碑文の末尾に、
大正三年十一月
高野登山鐡道株式会社
 社 長  根津嘉一郎 記
 取締役 日置藤夫 書   
と刻んであります。


この社名は画像の碑文を作成したときのもので、南海と合併する前の大正4年(1915年)3月11日から南海と合併した大正11(1922年)年9月6日の前日までは「大阪高野鉄道」という社名でした。
また、取締役の日置藤夫氏は明治時代の(わが国の)基幹産業だった紡績業などでも活躍した経済人のようです。
 

紀見峠駅を出て紀見隧道に向かう南海高野線の上り列車です。
少しばかりは話が美化されているかもしれませんが、高野登山鉄道(社名改称後は大阪高野鉄道)の業績回復後に、初代・根津嘉一郎氏は、ある投資家から値上がりした大阪高野鉄道株の譲渡を打診されたそうです。ところが、それは儲かる話ではあったのですが、鉄道経営の経験がない相手だったために株の譲渡を断ったそうです。その後、当初は安値で話にならなかった南海から譲渡額を見直したうえでの譲渡希望があり、「南海電車ならば会社は確実」という理由により根津氏は株を南海に譲渡することに決めたということです。
 

下り線の紀見隧道と南海電車です。
今回の画像は全て公道のガードレール内から望遠レンズを利用して撮影しており、南海電鉄の敷地に入って撮った画像は一つもありません。撮りにくかった碑文の画像も光ケーブル?などを避けるために、ガードレール下の隙間から望遠レンズで撮ったものです。
 

画像中央部の左端に写っているのが隧道完成記念の石碑です。
以上、今回は、全く一般受けしない内容のため、現地でササッと撮って終わりにするつもりでしたが、「民営鉄道の歴史がある景観I(佐藤博之氏・浅香勝輔氏の共著)古今書院・昭和61年発行」に掲載されていた画像の時代とは違って、今は隧道付近に灌木などが生い繁っており、撮影にてこずりました。(笑)