伊豆・小笠原弧は4000万年前に太平洋プレートの沈み込みによって海底火山列として出来始め、3400万年前には島弧として成長した。その後島弧は分裂し現在の九州、パラオ海陵と伊豆・小笠原弧になった。火山活動が活発だったのは3400万年前までと800万年前から現在までだという。結果として、南部フォッサマグナ、丹沢地塊、伊豆地塊の衝突が起きた。島弧ができたのは3400万年前から3100万年前までの800万年の間であった。深海底4000メートルが地上になったということは100万年で500マートルの火山岩の集積があったということ。
更級日記は藤原孝標の娘が1060年ころに自分の半生を回顧して書いた自伝、その冒頭には13才の頃家族と共に父の仕官地上総の国から京都に向かうため1020年9月22日に出発、足柄峠を超えて富士山の東麓から南麓を通過した。その時の様子を日記に記している。「さまことなる山のすがたの、紺青をぬりたらむように見えて、山の頂のすこし平らぎたるより、煙は立ち上る。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。」活火山だった富士山の姿は今の様子とは全く異なる異形の山だったことが分かる。降灰や鳴動については記述がなく、そうした激しい噴火ではなかったらしいが、高いレベルで活動していたことを伺わせる。富士山の噴火歴史であ大規模だったのが864年と1707年の噴火、平安時代の貞観6年、北西山腹で割れ目噴火があり青木ヶ原溶岩が流出、本栖湖、精進湖、西湖の三湖が形成された。青木ヶ原樹海はこの時の溶岩流の上にできた森林地帯である。江戸時代宝永4年の噴火は南東山腹での割れ目噴火、三島駅から現在見えるのが宝永の火口。この時の噴火では江戸でも行灯を使わなければ昼間も暗かったという。宝永噴火は同じ年に起きた東海地震(M8.4)の49日後に起きており、地震が引き金になったと言われている。その後300年、富士山の噴火はない。
歴史上の関東・伊豆の大きな地震をあげてみると、
818年 M7.5 関東諸国
878年 M7.4 相模、武蔵
1257年 M7.5 関東南部
1703年 M8.2 元禄関東地震
1855年 M7.0 安政江戸地震
1923年 M7.9 関東大震災
1924年 M7.3 丹沢
1930年 M7.3 北伊豆
1978年 M7.0 伊豆大島
南部フォッサマグナ地域では伊豆・小笠原弧と本州の衝突は1500万年前から始まり現在も進行中だという。200万年前ころに丹沢と伊豆の間にあった足柄の海は水深が1000-2000メートルあったのが火山岩石の堆積によって水深が600メートルより浅い海になった。130万年前になると更に浅くなり内湾となり陸上の扇状地となった。伊豆半島は2000万年前には本州から南に1500キロメートルほど隔たった海底火山であった。1100年前頃には1000キロメートルほどに近づき、海底の一部は浅くなってきた。1000万年前には伊豆・小笠原弧の北部で激しい地殻変動があり、後に伊豆半島になる場所が浅い海となった。100万年前には伊豆半島の北側が本州に接し50万年前頃には半島となった。20万年前頃には箱根火山以外の火山活動は停止、15万年前には新たに東伊豆火山群が活動を始めた。相模湾は2万年前には海面が現在より120メートル低下していて、東京湾から相模湾の陸棚は干上がった状態であった。縄文時代の15000年前ころには温暖化により海面が上昇、7000年前頃の貝塚は現在の海岸線よりずっと陸地内部にまで入り込んでいた。その後2000年前には海面低下があり現在の海岸線に近づいた、これを弥生海退という。
このように、伊豆半島と神奈川の地形は火山活動や海面上昇・下降などで大きく変遷し、現在の地形に至っている。富士山を北の端とする火山列は伊豆半島から伊豆七島、小笠原諸島、硫黄島まで連なり、東側の日本海溝に対して火山フロントを形成している。海底までを含んだ地図を見るとみごとに定間隔で火山が並んでいるのが分かる。東南海地震と富士山活動、相模トラフ活動が連動しているのがよく分かる。三陸沖地震が起きた原因と相模トラフ、日本海溝におけるプレートの沈み込みとの関連もあるに違いなく、1855年江戸安政地震が前年の東南海地震との関連で起きているという推測も、現在に活かす必要がある教訓ではないか。確かな予測は出来ずとも備えはできるはずである。
