『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の選者として知られる歌人藤原定家が書き残した『明月記」は、1162年生まれの彼が青年期である1180年から、1235年、自身が没する1241年の前、息子が公卿として出世を果たしたころまでの、ほぼ生涯にわたって綴られた日記。日記には自身、父の俊成、息子の為家、この三代の記録として考えることもできる。定家はけっこうな重労働である勤務をこなし、宮廷では無関心を装いながらも自身と息子たちの出世を望んでいるため公務の心労が重なり、出仕先での人間関係の軋轢、和歌の大家としての責任感や家長としての重圧と苦悩があり、三人いたと思われる息子たちへ、現代から見ればなぜこのような差別的扱いをするのかと思うほどの依怙贔屓、相当なる人間らしさを発揮する生身の定家の姿を浮かび上がらせる。著者は村井康彦、日本古代・中世史が専門の国際日本文化研究センター名誉教授。

 

明月記によれば、30歳のころの定家はいくつかの出仕先をもっていた。後白河院がお住いの六条院、後鳥羽の母がお住いの三条院、鳥羽皇女美福門院女の八条院、後鳥羽中宮任子の中宮御所、藤原良経の一条院などがあり、一日のうちに早朝から深夜までそうした出仕先を馬で回り、自宅の九条宅に戻る様子が日記には描かれる。当時の平安京一条から九条までの距離は南北5.3Kmであり、一日に22Kmほどを移動していたことになる。移動には牛車または乗馬での移動だったことがうかがわれる。殿上人として内裏や院御所への出仕は公務であり、九条家の家司として主家である一条殿に出かけることが多く、殿上人としての公務は番として6日に一日の日には天皇、院、女院などの御前に伺候して陪膳に奉仕し宿直たる候宿することもあった。そうした場合に要件を取り次ぐ各場所にいる女房の役割が大きく、そうした人間関係には苦労した。

 

日記によれば定家は見物好きだった。内裏や御所から行幸や御幸が出立したと聞くと、さっそく通路のしかるべき場所に赴きこれを待つ、目の前を通り過ぎる人ごとに官職名、名前、着ている衣装の種類や色彩、持ち物などを書き上げ、随身や舎人など従者の有無なども書き留めている。こうした記録癖は当時の宮廷での有職故実には公家のなすべきふるまいの基本が重要視され、公家の役割とはそうした伝統の保全と継承であったといっても過言ではない。見物はそうした記録の一部をなすものでもあった。

 

定家は九条家の家司を務めたため、兼実、良経らに奉仕した。良経が左大臣になってからは、彼に供奉して参内、出仕することが増えた。その際、定家自身としては良経の公務に参加するわけではないため、その隙間の時間が見物に充てられる。例えば良経が参加している会議を内侍所の立て蔀の内から見物したり、除目の日に前もって右大臣の公定から見物を許可されていたため、御簾の中に入って見物しているさまを知ることができる。こうした体験は、故実に一家言を持つ人物になるための貴重なる経験であったはずである。これは誰にでもできる経験ではなく、九条家という家に出仕する身分だったためである。このころの内裏は大内裏ではなく、京中に営まれていた里内裏だったことで実現できたという側面もある。しっかりとしたつくりの大内裏ではそんなのぞき見は不可能だった可能性が高い。京中内裏というのは当時の内裏の移行期であり、当時の王朝の実態を示す貴重な記述かもしれない。

 

除目とは人事異動の決定の場であり、自分自身や息子の為家が対象となる除目の日には、定家は必ず平常心を乱していた。所望する事がかなわない場合には、不満の鬱積が定家の精神を蝕んでいる。こうした正直で直截な記述は、明月記が日記のなかでも極めて私日記であるとされる所以である。本書内容は以上。