大映俳優録47 三田隆 | お宝映画・番組私的見聞録

大映俳優録47 三田隆

かつてのスターが落ちぶれてしまうということがよくあるのが芸能界だが、凋落という言葉がぴったりなのが三田隆である。50年以上前に亡くなった人なので知らない人も多いのではないか。そういう自分も最近まで知らなかったりするのだが。
三田隆は本名を国木田篤夫といい、あの国木田独歩の孫である。13歳の時、阿部豊監督の「太陽の子」(38年)に不良少年の一人として映画初出演(木田篤夫名義)。戦後、東映を経て東宝では重光彬の芸名で「私はシベリアの捕虜だった」「浮雲日記」(52年)に主演する。
この52年に大映東京に入社して三田隆となった。本名の国木田の方がインパクトがあると思うのだが、何故か使おうとはしなかった。大映では、当初は三條美紀、杉葉子、山本富士子などの相手役をつとめ、「落花の門」「花のいのちを」(54年)あたりまでは主演であったりしたが、その後は脇役にまわっていく。そして56年には映画出演が途絶えてしまうのである。これには、彼の素行が関係している。
東宝時代に酒に酔って、他人の自転車を盗んだことが新聞沙汰となり、それがもとで東宝を解雇され大映に移っていたのである。しかし、この大映でも交際して子供まで作ってしまった元女優が大映幹部の愛人だったことから、事実上映画界を干されることになったのだという。
その女優とは別れ、別の女性と結婚したのだが、三田に仕事はなく、妻がバー務めをして家計を支えていたという。しかし、三田が酒を辞めることはなかった。
三田は59年から、大瀬康一主演の少年向けドラマ「豹の眼」に、大瀬に少林寺を教える王という役で出演していたのだが、実はひどいアル中状態だったのだという。酒を入れた水筒をいつも2つぶら下げていたといい、黄だんの症状が出ており、肌も黄色になっていたという。アフレコ中に吐血して中断したこともあったという。
「豹の眼」は60年3月に終了したが、翌61年のそれも1月1日に妻と住んでいた自転車屋の2階の部屋で三田隆は死亡した。死因は胃潰瘍だったという。まだ37歳の若さであった。通夜に訪れる人もほとんどなく、かつてのスター俳優のその凋落ぶりが話題になったらしい。
三田の娘である国木田アコは、羽仁進の「午前中の時間割」(71年)に主演したが、それ1本のみであった。孫の国木田彩良はモデルになり、「花子とアン」に出演していた中島歩は国木田独歩の玄孫にあたるという。