場と人と。 | Work , Journey & Beautiful

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オルタナティブな学びを探求する


ここのところ友人達の間で長野県飯田市がやたらホットになっている。うちの会社の飯田さんもそんなこんなで飯田市に行ってきたとのことで、「飯田市って何があるんですか?」と聞いたところ「うーん、何かがあるわけじゃないんだけれど、飯田に行けば分かる魅力があるんだよねぇ」と言う。(なお、ここまでで飯田というワードを6回使用)


そんな友人達との飯田トークの中で、こんな発言があった。


「私にとっての飯田の魅力は、Yさん(飯田市の職員らしい)そのもの。Yさん経由で感じる飯田市が最高なのだ!」


そこに何かがあるわけではない、でも、そこにいる人に会いにそこに行きたくなる。これは飯田に限らず、そんな場所が確かにある。


その何気ない発言を聞いた時はそんなことを思っていた。


さて。今年のお盆は実家に帰らず、家族と仲間を連れて佐渡島の虫崎という集落に訪れ、取材をしながら過ごした。この虫崎という集落について書き始めると長くなるのでそれは別途書くとして、滞在中、僕らは何人かの人にインタビューをしていた。



中にはわざわざ茨城県から毎年虫崎に訪れる人がいた。なぜ、そんなに何回も足を運ぶのか?と聞けば、都会にないゆとりがあること、そして何よりも虫崎の人、とりわけ兵庫さんという集落の中心的な家族の方々に会いにくるためだと教えてくれた。他にも何度も虫崎に足を運んでいる人達がいるので同じようにその理由を聞いても、やはり同じく兵庫さん達の名前が出てくる。そして何より虫崎の話よりも兵庫さん達の人柄についての話が大半を占める。


あぁ、これは飯田市の話と同じなのかな、などと思いながら、ふと気になり「あなたの中で、ここに来る、というのは、兵庫さん達に会いに来る、という意味でしょうか?それとも、虫崎に来る、という意味なのでしょうか?」と尋ねてみた。少し考える時間があった後、返ってきた答えは意外にも「半々、、、うーん、兵庫さん達に会いに来るが6割、、、かなぁ。」というものだった。


その割合の理由を尋ねる。返ってきた言葉はこうだった。


「兵庫さん達が虫崎じゃなくて別のところにいたとしたら、こんなにも何度も足を運ばなかったかもしれないなぁと思ったんですよね」


グローバル化が進み、世界が画一化・合理化されていく中で、地域という「場」の価値が相対的に高まっていく、と僕は思っている。なぜならば地域という「場」にこそユニークな文化、伝統、自然といった資源が潜んでおり、それらの資源を活かしたサイトスペシフィックな営みからこそ、新しい豊かさが生み出せるはずだと思うから。


ただし、場の資源は、必ずしも一目見ればそこに何かがある、と感じられるほど、分かりやすいものとは限らない。現に、なんの予定もない日に、誰にも会うことなく虫崎に訪れたら、ほとんどの人は「小さな集落があるだけで、何もない場所だ」と感じるだろう。


しかし、ひとたび場に「人」を介してアクセスすれば、途端に場の資源から価値が生み出されうる。虫崎の魅力についてある人はこう言った。「ここでは無音が聞こえてくる。それがたまらなく好きだ。」と。静寂すら、豊かさを生み出す資源になる。


場と人。

場に蓄積される資源と場の資源にアクセスするためのインターフェイスとしての人。


この二つが揃ったところには、たとえ≪分かりやすい何か≫はなくとも、確かな豊かさが生まれていくのだなぁ。