今、目の前に障害という名の壁があるとして、
その壁を乗り越えられるかどうかは、
直面した時の心理状態に大きく左右される。
つまり、
出来ない言い訳を考えてしまうか、
乗り越える価値を感じられるか。
後者は、「なんとなく成長につながりそうだから」というのは価値とは呼ばない。
そこには強い具体性がなくてはならない。
乗り越えて得られるものは何か?
それが自分にとってどれだけ価値があるのか?
他より優先して取り組むべき程の価値なのか?
ここまで考えて答えが出てはじめて、
乗り越える価値を具体的に感じる、というフェーズに至る。
こうなったら殆どの壁は、寧ろ意味のあるステップになり、
越えられないものは殆どなくなるだろう。
(唯一、他に圧倒的に価値のあることが現れた場合は話は別だけど)
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「やりたいならやればいいじゃない」
個人的に僕はこの台詞が好きではない。
それは、
軽い気持ちで何かを始めて、他人を巻き込んで、
結局言い出した本人の心が折れてしまい(飽きてしまい)不幸だけが残る、
なんてケースを数多く見て来たからだ。
勿論、意味のないことなんてありはしないから、
その頓挫から学べることもあるだろうし、学ぶべきだけれど。
とはいえ、人生の充実度をより高めるアクションを他にとれる可能性を蔑ろにしているのは極めて勿体ない。
僕の発言が直接的にせよ、間接的にせよ、そんな傾向に拍車をかけることを、僕は嫌う。
人間、つねに「やりたい事」「やるべき事」は複数候補があるものだ。
個人の内的な動機(個人的な動機)によるものも外的な動機(社会的な動機)によるものに別れ、
また別軸として、本人の意識内にあるものと、意識外にあるものとに別れる。
そして人間の成熟により内的動機と外的動機とのゆるやかに統合されていき、
無意識から意識内へのシフトしていく。
人生の充実度を高めるにあたって、
この統合とシフトは極めて重要なファクターであるような気がしている。
まぁ、それはさておき。
内的な動機と外的な動機が完全に一致するのなら、迷わずアクションに移すだろう。
また、内的な動機のアクションとして他に影響を与えないようなものなら、これも迷わずにアクションに移すだろう。(責任は自分がとればいいのだから)
えてして、「やりたいこと」について悩んでいる人は、
意識内にある内的な動機で、外的な動機(例:周囲からの期待)との間に起きているコンフリクト(ストレスやギャップ、または反発)に悩んでいる。
やりたいけど、できない理由が多すぎるのだ。(そしてそれは本人または所属社会の成熟度に課題がある場合が多い)
そういった状態で、「やりたいならやればいい」というメッセージは誤りではないけれど、
前提の抜け漏れがあるような気がしてならない。
つまり、様々な可能性がある中で、
・本当にやりたいと思っていることは、今の自分にとって最も価値のあるものなのか?
・そこから得られる価値とは具体的に何か?(ただ楽しそうだけで始めるのであれば、楽しくなくなったら辞めるのか?)
この2つについてとことん悩み抜いた上で、それでも「やりたいならやればいい」と僕は思う。