第二章 不安は敵か


不安を消そうとする社会に、私たちは長く住んでいる。

安心、安全、保証、安定。どれも悪い言葉ではない。だがその裏側に、「不安は排除すべきもの」という前提が潜んでいる。


本当にそうだろうか。 


進化生物学の視点で見ると、不安は生存装置だ。危険を察知し、行動を変えさせるための警報システム。もし人類に不安がなければ、私たちはとっくに絶滅している。ライオンの前で哲学して終わる。 


不安は壊すためにあるのではない。

調整するためにある。


問題は、不安そのものではない。

不安を「敵」と定義した瞬間に、構造が歪むことだ。


敵と見なせば、抑え込もうとする。

抑え込めば、別の形で噴き出す。


暴飲暴食、過剰消費、過度な承認欲求、過労。

形を変えた逃避行動は、実は不安との戦争の副産物だ。



ここで少しだけ、認識を反転させる。


不安はエラー表示ではない。

アップデート通知だ。


パソコンの通知を叩き壊しても、システムは更新されない。それと同じで、不安を否定しても構造は変わらない。


大事なのは、不安の「内容」ではなく「方向」だ。

 

将来が不安なら、何を失うのが怖いのか。

 評価が不安なら、どの役割にしがみついているのか。

孤独が不安なら、どんな関係性を前提にしているのか。


不安は、依存点を教えてくれる。


面白いことに、安定している人ほど不安がゼロなわけではない。むしろ小さな不安を丁寧に扱っている。早期警報を無視しない。だから大事故にならない。


不安を消すのではなく、解像度を上げる。


ぼんやりした不安は怪物になる。

輪郭を与えると、設計図になる。


社会が不安を煽るのは、不安が動力になるからだ。人は不安で動く。だから市場はそれを利用する。だが、利用されるか、利用するかは別問題だ。


不安を材料にできる人は、揺れを観察する。

飲み込まれる人は、揺れに名前をつけず逃げる。

ここで一つだけ、静かな実験をしてほしい。

次に不安を感じたら、こう考える。

「これは何を守ろうとしている警報か」


敵だと思えば戦いになる。

装置だと思えば対話になる。



第二章の結論はこうだ。


不安は消すものではない。

翻訳するものだ。


翻訳できた瞬間、不安は敵から設計補助ツールに変わる。

そして構造再設計は、ようやく実務フェーズに入る。