東山彰良さんの小説『わたしはわたしで』。読者の背中を押す1冊 | てっちゃんの明日を探して

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小説やドラマの感想、それと時事問題について、思ったことを書き殴るブログです。

東山彰良さんの小説は、いつも悲惨で残酷な現実を描いているのに、どこかユーモラスだ。

「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」というチャーリー・チャップリンの言葉を、小説で再現しているかのように。

そして、東山さんは、男性作家にしては珍しく、女を理想化や偶像化する度合いが少ない。

ほら、よくいるじゃないですか、「こんな女いねえよ!」っていう女性しか描けない男性作家爆  笑

だから東山さんの描く女性ってけっこう好きなんだよね、私。

 

この短編集『わたしはわたしで』も、まさにそう。

表題作は、コロナ禍による失業、不実な男との不倫、モノにならない小説、そういったやるせない現実を生きるアラサー女性を描いている。

彼女を取り巻く現実は、職もないし、貯金も底をついたし、田舎に帰れば母を殴る父がいるし、再就職しようとすれば面接官にヤられそうになるし、地下鉄に乗ればコロナ禍真っ盛りの2021年なのに堂々と車内でデンタルフロスを使っているジジイがいるしガーン本当にマイナスなことばかりだ。

だけど、その現実を描く東山さんの筆致は非常にコミカル、かつ、ぶっちゃけているのよね爆  笑

 

私には、義母の介護や子どもの高校退学など、本人にとっては地獄のごとくたいへんなことを、面白おかしく話せる天性の才能をもつ友人がいるが、たぶん彼女も東山さんと共通の心性を持っているのではなかろうか。

お陰で、深刻な話を聞かされているはずなのに、こちらは決して暗い気持ちにはならない。

ときには、退学して荒れる娘や、ボケのきた義母、それらと対峙する彼女の言動に、大笑いさせられてしまう。

それでいて、彼女の話は長く心に残る。

「私ってこんなに不幸なのよ泣」と嘆く人の話の何倍も。

 

「わたしはわたしで」の主人公は、最後に「不幸の手紙」の逆バージョンのような体験をし、そのおかげで「現実の檻」からちょっとだけ抜け出すことができた。

彼女が、自分が受け取った「幸運の(?)メッセージ」を、知らない誰かに回そうとするところで、この話は終わる。

彼女はうまくメッセージを送れただろうか。

わからないけど、さまざまな経験を経た今、彼女なら不器用でも「今」「その人に」必要な言葉をちゃんと贈れたような気がする。

 

でも、私がいちばん刺さったのは、地元でハブにされていた幼なじみ2人のその後を描く『遡上』だな~。

東山さんは、少年の群像劇を書かせると抜群にうまい!

この作品で描かれる少年は2人だけど、1人はいわゆる「貧乏で不幸な変わったヤツ」で、もう1人は「鼻持ちならない性格のデブ」爆  笑爆  笑

前者のヤッスは、10代で結婚して漁師町に残って漁業で生き、後者である主人公は、ヤッスに負けじとダイエットと勉学に励み、同級生でただ1人東京の大学に行く。

そして主人公は、かつて自分を無視していた同級生たちを「見下すためだけ」に同窓会に行き、マウントを取りまくり、みっともない振る舞いを重ねる。

ココ、めっちゃ笑えるのよね爆  笑

その結果、ヤッスについて衝撃の事実を知ることになるガーン

 

その後、大学を出て東京の出版社に就職した主人公は、ヤッスに会うこともなく、どんどんどんどんみっともない人間になり下がっていく。

そんな自分を嫌悪した彼は、ふらりと実家に帰り、貧しくても堅実に生きているらしいヤッスの人生を垣間見る。

最後に、自分とヤッスが昔、港で捨てられた魚を与えていた野良猫たちの子孫が、今もヤッスの娘から与えられる魚を食べる姿を見て、「ああ、むかしっからこいつら美味そうに食うなと思ったら、涙が溢れて止まらなくなった」主人公の姿に、私は自分を重ねずにはいられなかった。

たぶん、「田舎を捨てて」都会に出て働いている人間はみな、1度はこうした経験をすると思う。

それでも、主人公にも、私にも、ほかのみんなにも、もはや「田舎に戻る」という選択肢はないのだ。

今いるこの場所でどんどんどんどん汚れ続け、みっともなく生きていくしかない。

はあショボーン

この主人公や私同様、田舎から都会に出てくる人間なんて、多くがロクなもんじゃないですよホントショボーンショボーン

 

前半の3作は、台湾や南米など、作者になじみの深い異国が舞台となっている(だから違和感が全然ない)、6編で構成されたこの短編集。

いずれも人間の深い後悔と、そこからの再出発を描いています。

「あなたはあなたで生きるしかない」と。

いや

「あなたはあなたでいい」と。

読者の背中をそっと押してくれる1冊です。