よかった、トイレは、さほど混んでいない。
1Fの化粧品売り場の奥にあるこのトイレは、あたしが本当の名前からナナに変わる場所だ。
1番端の席に座ると荷物をどかっと置いた。
蛇口の側に、最近来た時と同じ場所に傷が残っていた。
あたしはバッグから化粧ポーチと着替えのワンピース、それから香水、ブラシ、鏡をてきぱきと慣れた手つきで取り出す。実際、慣れている。
その間にもメールは入ってくる。
今日会う男からも来ているし、別の新規の男たちからもメールが来る。
これから会うはずの男が現れない可能性も捨てられないのであたしは全部にコピーした返信を慣れた手つきで送り返した。実際、これも慣れているのだ。
あたしの親指は携帯のどこのボタンを押せば自分がその時送りたいコピーの文章が映し出されるか、ちゃんと記憶しているのだ。
一応今日会う男「ケン」からのメールは新宿がよくわからないという内容だった。
サイトに投稿すると男からのメールは驚くほど入ってくる。中には前に会った男からも入ってくる。
その絶えないメールの数々の中にはもちろん冷やかし目的のものや脅しめいた内容のものもたくさんある。
それをあたしは今までの経験と勘で素早く削除する。
それでもたまに、そういうものにぶつかる時もある。
そんな時は、日と運が悪かったんだと言い聞かせて素直に諦めて帰宅するに限る。
お金に切羽詰っている時もあるけれど、どうしたって見つからない時というのは存在する。携帯の充電が無くなるのがある程度の目安だと踏んでいる。
今日もメールはたくさん来たけどピンと来る相手がなかなか見つからなかった。
「ケン」は再投稿してから来た男だった。
24歳、栃木県というプロフ付きで、やたらと絵文字が入ってきた。
「栃木?」
読むと、出張で東京に来ていて帰るまで少し時間があるから、と続いていた。
ガチャガチャしている絵文字だらけのメールだったけど、嘘でないなら栃木というのが魅力的だった。
今日帰らなければならないのだ。
きっとそんなにギリギリまでは新宿にとどまることは出来ないだろう。
早く終われる!
期待をこめていつものコピーメールで返信した。
「メールありがとうございます。Fとお触りとかで1.5希望です。OKだったらお返事下さい」
合間に顔文字をたくさんいれた。
援助交際は立派な犯罪なので隠語を使って相手に訴えかけなければならない。
Fはつまりは口で奉仕することの略語だ。これと、自分の身体を好きに触っていいから1万5千円頂戴、そういう内容だ。
絵文字は気が重くなるだろうから気晴らしに入れてやっているのだ。
素直に援助交際して欲しいなどと投稿するとすぐに削除されてしまう。
場合によっては警察に捕まるかもしれないと、根はびびり屋のあたしが色々なサイトを渡り歩いた実績から落ち着いた文章だった。
投稿内容もいつも同じ。
「新宿で7時か7時半から会える人いませんか。話の分かる方お願いします。
とってもこまっているから冷やかしとかNGです。
確実に今夜会える人だけメール待ってます。」
自分の顔立ちや体系も投稿文に付け加えておく。
困る、だとか助けて欲しいとか、そんな言葉も最初は普通に入れられたけどそのうち禁止用語に入ってしまって平仮名じゃないと投稿できなくなってきた。
援助交際の「援」という文字も同じく禁止用語に認定されていて「円」だとかサポートして欲しいという意味で「サポ」とかで表現する子もいる。
来るメールは大体は援助目的だと分かった上でのものが多い。
男たちはそれぞれ、その数だけ欲望というものがあるからこそ、こんな投稿にメールを寄越してくる。
それだけあって内容も様々だ。
「俺、スゲーMなんだけど命令してくれる?」
「縛ってもいいですか」
「Hもさせてよ」
「やれねえでその値段は高すぎ。それなら風俗いく」
「ゴムありで本番させてくれるなら2出します。」
「○○まで来てくれたら10万出します。電車賃ももちろん出すよ」
来るメールに返信しない時は余計にお金を出すと言われた時が圧倒的に多い。
あたしは少し前から本番はしない事に決めていた。
セックスもしたいから2出す、というメールなら返事はする。
「ごめんね、こういうサイトとかで本番したことないから無理です、他の人探してみるね」
泣き顔の顔文字でも入れれば、手と口だけでいいよ、と返信が来る可能性もある。
だけど渋谷くらいならともかく、新宿以外の別の場所まで来いだとか5万や10万出すという内容はそれ自体嘘くさいと決め付けて無視する。
それから写真が添付されてくる事が多いけどあまりに美形過ぎる相手のメールも無視している。
嘘臭いし、もし本物だったらなんだか申し訳ないから。
ホテル代はもちろん相手の負担。
うまくいけば節約したいからと車で済ませてくれる場合もある。
早く帰りたいあたしにとっては願ったり叶ったりの申し出だ。
本番をしなくなった理由はいくつかあるけど、やっぱり早く帰りたいという気持ちが1番大きい。
手と口だけにすれば金額は減るけれど終われば帰れる雰囲気がセックスより強い。
今日の相手を選んだのはメールが慣れていない感じで、こっちに合わせてくれそうで楽だと思ったこと、それに日帰り出張なら早く帰れるから、それだけだ。
「ケン」は本当に慣れていなかった。
「あの、僕こういうの初めてなんですけど1.5というのは、金額の事ですよね?僕があなたに1万5千円払うってことですよね」
普段、違和感を覚える内容には以降返信しないようにしている。
自分の第六感を信じているからだ。
でも「ケン」のメールは本当に冷やかした感じではないように思えて「そうですよ」と返信した。
そして絶対条件がある。
「新宿は人が多いから見つけにくいかもしれないから携帯の番号聞いてもいいですか」
あたしは相手との番号交換を強く希望していた。
嫌がる男も多い。最後の最後でこれを聞くのには理由がある。
最初から交換したいと言うと何かと物騒な世の中、関わりたくないとメールが来なくなる場合がけっこう多い。
だけど散々メールで打ち合わせしておそらく向こうも会う気満々の状況で聞くと怪しいと思いながらも教えてくれる事の方が実は多い。
それに番号を教えてくれると大抵、絶対に会える。
稀にかけても出てくれない事もあるがその時は諦めて家に帰ればいいだけの事だ。
あたしは知らない番号からの電話は絶対出ないと決めているのでテレクラだとか伝言ダイヤルに使われてしまってかかってきた事もあったけど無視してればいい。
それに番号を知られたからと言って住所まで知られる事はない。
個人情報の流出はもはや避けられないところまで来ているかもしれないけれど携帯番号1つで住所を知るにはそれなりの費用がかかる。
それをしてまであたしに会いたいだとかあたしを知りたいという奇特な人間はいないはずだ。
だって別の女の子に移ればいいだけだ。
番号交換は自分がいつか捕まったとして、その時相手にもリスクを背負って欲しいこと、それから何より性病になってしまったりした時の連絡先。
あとはもし何かトラブルに巻き込まれた時、警察が調べる際、最後に電話した相手だと分かるように。
あたしはどこまでもびびり屋だ。
「ケン」から返事がすぐに来た。どう出る?受信BOXを見る。
「OKですよ、番号は」
その後に携帯番号が記載されていた。
あたしはすぐに御礼のメールをして
「じゃあ新宿着いたら電話しますね」
と自分の番号を入れた。
多分「ケン」は確実に現れる。
あたしは写メは絶対送らないと決めている。悪用されるのが怖いのだ。
万が一、タイプじゃないと「ケン」に断られたとしてすぐ会えるよう他の男からのメールも相変わらず返信する。
合間にメイク直しを終わらせて髪をおろして胸元が開いたセクシーなワンピースにも着替えた。自分でも早業だと思う。
だけど「ケン」とは今日会う。
「タイプじゃない」と断ることも「ケン」は出来ないような気がした。
援助交際に関わるような男を好きにはならない。絶対有り得ない。
だけど全く無関係だった2人がこれから少しだけ同じ時間を共有するのだ。
その時間が過ごし易いものであるよう、あたしは願った。
楽しい時間じゃなくていいから、と。