茶の湯にどっぷりと浸かっていると

始めた頃の新鮮さを忘れてしまうことがある

そんな時に参考にするのは


森下典子著

日々是好日


お弟子さんの気持ちがなかなか茶事に向かない

そうだあの本には茶事のことは書いてあっただろうか

と思い紐解いてみた


やはり書いてあった

少し引用させて頂きます




年内いっぱいでやめると決めた私は、先生に打ち明けないまま、残り少ない数回のお稽古に通っていた。

そんなある日、先生が言った。

「今度、『お茶事』の稽古をします」

「茶事」とは「茶会」のことだと思う方も多いだろう。しかし、「茶会」と「茶事」は、まるでちがうものなのだ。


・・・・・・・あれは、まだミチコと一緒にお稽古をしているころだった。

「お茶事の勉強に行くわよ」

と、先生に連れられて、出かけたことがあった。私は、またいつもの「お茶会」なのだろうと思っていた。ところが、閉静な住宅街のふつうの家に、「ごめんください」

と入っていく。そこは一般の民家が経営する「貸し茶席」だった。静かな庭に、こぢんまりとした茶室があった。お客は私たちだけ。ひっそりとして、いつもと様子がちがった。

びっくりしたのは、茶室の入り口が異様に小さいことだった。頭をこごめ、体を丸めなければ入れない。「小人の国」の入り口みたいだった。先生に続いて、一人ずつモグラのように丸まって、お辞儀しながら茶室にもぐり込む。

穴の中は四畳半で、薄暗い。なにやら秘めやかで、ちょっとワクワクした。

この家の奥さんらしき「ご亭主」が出てきて、炭点前があり、それからなぜか、一人分ずつお膳が運ばれてきた。

(え?ここって料理屋なの?)

お膳の上に、黒塗りのお椀が二つ並んでいる。


先生のする通りにまねて、二つのお椀の蓋を、左右の手で同時に開けた。フワーッと湯気がたちのぼり、出汁の香りが鼻をくすぐった。右のお椀は、わずかな汁に具が一つ。左のお椀の中は、二口ほどの白いご飯。

(あら、こんな少し?)

ところが、白味噌仕立ての汁を一口すするなり、私とミチコは思わず顔を見合わせ、目を輝かせた。出汁と白味噌の深い味、ゆずの香り。具はお麩で、じわーっと柔らかく出汁がしみ出る。ほんのちょっびりしか入っていないご飯は、粒がキラキラと光っていて、一粒一粒に甘味があった。

「ご飯は、全部食べないで、一口残すのよ」先生が言った時は、もう遅かった。

「だって、おいしいんだもの…・・・・」お椀の向こうの鮮のお刺身に箸を伸ばすと、「まだよ。お酒が出るまで、お向うの皿には、手をつけないで待ちなさい」「え?お酒も出るんですか?」

冷酒が出てきた。美しいガラスの酒器の、鳥のくちばしのように長い口から、真っ赤な塗り物の杯に、チロチロと注いでもらって飲む。トロリとしたおいしいお酒だった。

それからが、すごかった。次から次へと、ごちそうが押し寄せた。煮物、焼き魚、炊き合わせ、酢の物、酒の肴....・。汁のおかわりもたっぷりあり、ご飯のおかわりなどは、大きなお[ことやってきた。どれ一つとっても、高級料亭のような上品な味で、盛り付けや器が美しかった。煮物の黒い漆の腕には金の絵が描かれて、薄暗がりに妖しく輝いていた。これでもかこれでもかと、昼酒が何杯もくみかわされた。

ゆったりとした優雅な食事と酒の時間が、いつ果てるともなく続く。

(あ~、イタリアの昼食みたい)

イタリア人たちは、三時間かけてゆっくり食事する。前菜や山盛りのパスタやサラダや大きな肉をこれでもかと食べ、昼でも大瓶のキャンティを飲む。甘いデザートを食べ、食後酒まで飲む。

私はすっかり満ち足りていた。

およそ二時間半後、やっと食事が終わって、席を立った。私は、何をしに来たのかすっかり忘れ、食事が終わったから帰るのだと思った。

ところが、

「さ、お庭に出て、ご亭主の準備ができるのを待つの」「準備?」

「これから、いよいよお茶が始まるのよ」(そうだ、今日は「お茶」だったのだ)

「今のをね、『茶懐石』というのよ。お抹茶をいただく前に、腹ごしらえする、おしのぎの食事なの」

「えーっ!」

あの長い長い豪華なお食事は、「助走」だったのか!

「茶事」というのは、とんでもないものだ。

庭に出て膝を伸ばし、腰掛に座って、手入れの行き届いた庭を眺めながら、「後半」が始まるのを待った。お芝居の幕間の「休憩」に似ていた。

それから、再び小さな入り口からもぐりこんだ。すると、薄暗かった茶室の中に、光がさしていた。さっきまで窓におろされていた策が、全部巻き上げられたのだ。

そして、おごそかに濃茶点前が始まった。

星から始まったお茶事がすべて終了したのは、夕方だった。


一般のお茶を楽しむために、なんと半日もかけたのだ。

料理、瞬、盛り付けに至るまでこだわりぬき、酒をくみかわして座をなごまし、水を打ったにひとたび場を移し、第を巻き上げ室内の光を変える。すべては、たった「眼の状来のために…・・・.!

(これほどの贅沢があったなんて…・・・・・)

だけど、毎週、自分がやっているお茶の稽古と「茶事」を、つなげて考えたことはなかった。私は、小さな入り口をもぐった奥の、あの贅沢な時間を、「まつり」のような特別の出来事と思っていた。

[お茶事」の稽古をします」と、言われてもピンとこない。

「懐石の準備は、私が友達に手伝ってもらって全部します。正式にやりますからね。みんな、お茶事の本を、ちゃんと勉強してきてよ」先生は、すごく張りきっていた。もう席順も決めていた。

「お正客』は、大事な役だから、雪野さんにお願いするわね」