今日の箇所(第二列王 18:26-37)には、扇動され、恐れに包まれた時、浅はかに行動するのではなく、沈黙する知恵が必要であるということが示されています。
ヒゼキヤの家来たちは、扇動的な言葉で挑発するラブ・シャケに対し、民が聞き取れないようにアラム語で話して欲しいと頼みます。 ところが、ラブ・シャケは、民こそが自分の置かれている悲劇的な状況を知るべきだと主張し、彼らの要請を無視します。
ラブ・シャケの脅しの言葉の中にある「自分の糞を食らい、自分の尿を飲む」とは、アッシリアの包囲により、激しい飢饉に見舞われることになるということを意味しています。
ラブ・シャケは、エルサレムの民に向かって、ヒゼキヤのいうことを聞いてはならないと大声で叫びます。 つまり、主に信頼してはならないということです。 彼は、ヒゼキヤの信仰をあざ笑い、神の民の信仰を揺るがせようとします。
そうしてから、アッシリアの王の寛大さを告げ、降伏して捕虜になることが、豊かに食べ、幸せに暮らす道であるとそそのかします。 また、どんな神々も自分の国をアッシリアの王の手から救い出すことができなかった事実を示し、主なる神様も同様に無能な神であると蔑みます。
ラブ・シャケの言っていることは、サタンが私たちを欺く言葉と似ています。 信仰を揺るがし、神様の力を否定する言葉の背後には、悪の勢力があることを肝に銘じるべきです。
ユダの民は、ラブ・シャケの言葉を聞いても、沈黙を保ちました。 ヒゼキヤの命令に従ったのです。 扇動と懐柔に騙されない秘訣は、信仰によって神様に拠り頼むことです。 不安で恐ろしい状況であるほど、天地を造られた神様、万物を御力によって治めておられる神様に拠り頼むべきです。
偽りの言葉は、相手にする価値すらありません。 私たちは、悪しきそそのかしの言葉には沈黙を保ち、神様に向かって祈りの口を開く必要があります。
興亡盛衰は権力者の手にかかっているようでも、実際には、すべての歴史を導いておられるのは、唯一まことの神様であることを告白します。 私を不義から救い出せる唯一の救い主であられる神様をほめたたえます。 不安や恐れに襲われるたびに、まず主の御前に出て、あらためて主だけに拠り頼み、信仰によって生きる自分であることを思い出すことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。