今日の箇所(アモス 3:9-15)には、神の民は、その特権に相応しく、正しく生きることが求められているということが示されています。

 

神様は、異邦の民を集めて、ご自分の民が犯した不義の目撃者とされます。 神様を知らないアシュドデ(ペリシテの代表的都市)とエジプトが証人として立てられることは、サマリア(北イスラエル)の罪が異邦人と変わらないことを示しています。

 

サマリアでは、正義が失われ、弱者への虐げが横行していました。 彼らが宮殿に蓄えていた宝物は、暴虐と略奪によって積み上げられたものでした。

 

神様に敵対したイスラエルは、敵に攻撃されて宮殿まで略奪され、生き残るのはごく少数だけという悲劇を迎えます。 

 

私たちは、神様から与えられた力や資源を、罪や欲望を蓄えるために使ってはなりません。 恵みによって救われた私たちは、正義を行って生きるべきです。

 

神様は、契約の民イスラエルへの裁きを宣告されます。 ベテル(「神の家」の意)は、かつてヤコブが神様と出会い、約束を与えられた聖なる場所であり、イスラエルの信仰の中心地でした(創世記 28:10-19)。 しかし、彼らはそこで偶像礼拝を重ねたため、神様はベテルの祭壇を打ち壊し、その角を折ると告げられます。

 

祭壇の角は、罪人がすがり付き、救いを求める場所でした。 その角が折られるのは、もはや逃げ場がないという最終通告です。 彼らが神の家を汚したので、神様もその宮殿の崩壊を宣告されたのです。

 

神様は、形式的な宗教活動ではなく、みことばに従う生活を願っておられます。

 

受けた恵みに相応しく生きられているか、今一度、自分の生き方を振り返りたいと思います。 かたちだけ神様を敬うのではなく、心から神様を敬い、みことばに従って、正義を実践して歩んで行くことができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(アモス 3:1-8)には、神様の恵みに正しく応答しなければ、必然的に裁きが下るということが示されています。

 

特権には、それ相応の責任が伴います。 神様は、イスラエルのことを、「わたしがエジプトの地から連れ上った民」と呼ばれます。 これは、神様がイスラエルを選び出して救ってくださったことを確認させる表現です。

 

神様は、この世のすべての種族の中からイスラエルを選び出し、彼らと契約を結ばれました。 神様は彼らの神となり、彼らは神の民となりました(出エジプト 6:7)。 神様が選ばれたイスラエルには、祭司の王国となり、聖なる国民として生きるべき責任がありました(出エジプト 19:5-6)。 しかし、イスラエルは、その責任を蔑ろにしました。

 

私たちは、神様の恵みに対し、神の民に相応しい生き方をもって応答することが求められているのです。

 

アモスは、答えの明らかな問いかけを通して、神の裁きの必然性を訴えます。 約束もなしに二人の者が一緒に歩けないように、すべてのことには原因と結果があります。 獅子が吼えるのも、鳥が罠にかかるのも、町で角笛が鳴らされるのも、それぞれ理由があります。 なので、神様を忘れた民に災いが下るのも、必然の結果なのです。

 

しかし、神様は、裁きを下す前に、預言者を通して警告してくださいます。 アモスは、獅子が吼えるなら誰もが恐れるように、神様が語られるなら預言せずにはいられないと語ります。

 

神の民としての責任を軽んじる者たちにとっては、裁きは避けることのできない結果なのです。 しかし、神様が裁きの前に警告を与えてくださることは、まだ立ち返る機会が残されているというしるしなのです。

 

取るに足りない私が、神様の子とされる恵みを受けながらも、神の民として生きることには、あまり関心を向けてこなかったことを悔い改めます。 神の民に相応しく、唇と生き方をもって世と区別されていることを証しできますように。 恐れおののく心で裁きを認め、伝えることができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(アモス 2:9-16)には、神様が与えてくださった恵みを忘れるなら、神様の祝福から遠ざかるということが示されています。

 

神様は、イスラエルへの裁きを宣告する前に、過去に施された恵みを思い起こさせます。 神様は、杉の木のように大きく、樫の木のように強かったアモリ人を、彼らの前から滅ぼし尽くし、またエジプトから救い出して荒野に導かれた後、彼らに約束された地を所有地として与えられました。 それだけでなく、預言者とナジル人を起こして、神の民に相応しく生きられるように恵みを施されました。

 

しかし、イスラエルは、ナジル人の誓願を汚し、預言者の口を封じ、神様の恵みとみことばを拒みました。 恵みを忘れた場所には不従順が育ち、不従順の終わりには必ず裁きが待っています。

 

しかし、恵みを覚えて、みことばに従う者は、神様が与えてくださるいのちと祝福を味わうようになります。 私たちは、神様が施してくださった恵みを覚え、謙遜にみことばを守り、区別された歩みを続ける必要があります。

 

神様は、恵みを忘れたイスラエルに裁きを宣告されます。 その裁きは、穀物の束を満載した荷車に押し潰されるかのように、イスラエルを押し潰します。

 

神様の懲らしめの前では、足の速い者も、強い勇士も、武器を持った兵士も、何の力も発揮することができません。 その日には、最強の勇士でさえ、自分の力と武器に頼ることができず、しっぽを巻いて逃げ出すようになります。

 

それは、単なる軍事的敗北ではありません。 恵みを忘れて、神様の御名を辱めた罪に対する、直接的かつ徹底的な裁きです。 救いの恵みを忘れた不従順な者には、希望のない未来が待っているだけです。

 

目の前の問題やうまく行かないことに対して不満を抱き、計り知れない神様の恵みを忘れていたことを悔い改めます。 ただ恵みによって生きて来たこと、今を生きていること、これからも生きて行くべきであることを心に刻みます。 恵みのみことばに謙遜に聞き従って歩めますように。 御霊の照らしと導きがありますように。 

今日の箇所(アモス 2:1-8)には、律法を軽んじる者には裁きが下るということが示されています。

 

神様は、モアブへの裁きを宣告されます。 「モアブ」(ロトの子孫)は、エドム(エサウの子孫)の親戚に当たります。 ところが、モアブは、エドムの王の骨を焼いて灰にするという蛮行を働きました。

 

古代近東において、墓を掘り起こして骨を棄損する行為は、死者への侮辱でした。 神様は、死者の尊厳すらも踏みにじる残酷な行いを看過されません。

 

そのため、モアブの宮殿を焼き尽くすと宣告されます。 その結果、モアブの王と指導者たちは激しい戦いの中で倒れ、その国は滅びることになります。

 

私たちは、憎しみと怒りに駆られて、人の名誉を棄損したり、人格を踏みにじったりしてはなりません。 神様の似姿に造られた人々を、最後まで尊ぶ必要があるのです。

 

神様は、ユダとイスラエルの罪を暴かれます。 まず、「ユダ」は神様の律法を軽んじ、偽りの神々に惑わされて、間違った道を歩んでいました。 そのため、神様はユダとエルサレムの宮殿を焼き尽くすと告げられます。

 

次に、「イスラエル」の罪がさらに具体的に語られます。 彼らは、金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売り渡し、弱い者を踏みにじりました。 また、性的・宗教的に堕落し、弱者から搾取するだけでなく、神様の御前で罪悪を繰り返しました。

 

信仰は、神様への礼拝だけでなく、隣人への態度と悪者への接し方の中にも現れます。 私たちは、神のみことばをいのちとし、日常生活のすべての領域において神の民に相応しい生き方をすることが求められているのです。

 

すべての歴史を治められ、すべての民族を裁かれる神様の厳しい御声に耳を傾けたいと思います。 自分の歩みが罪に向かっていないか、神様の御名を汚していないか、振り返ることができますように。 そして、みことばの前ですぐに立ち返ることができるよう、主が導いてくださいますように。 御霊の照らしと導きがありますように。

今日の箇所(アモス 1:9-15)には、憐れみを断つことは、神様の忌み嫌われる罪の一つであり、大きな裁きをもたらす原因となるということが示されています。

 

神様は、ツロとエドムへの裁きを宣告されます。 地中海の海上貿易を掌握していた「ツロ」は、イスラエルと結んだ同盟、すなわち「兄弟の契り」を破り、イスラエルの民をエドムに奴隷として売り渡しました。 神様は、この罪により、ツロの城壁とその宮殿を焼き尽くされます。

 

また、エサウの子孫である「エドム」は、兄弟国イスラエルを剣で追い、憐れみを施さず、激しい怒りを注ぎ出しました。 神様は、この罪により、エドムの最南端テマンから最北端ボツラに至るまでの全地を焼き尽くされます。

 

神様は力のある者の無慈悲を決して軽くご覧になりません。 私たちは、弱者から顔を背けるこの世のやり方に染まらず、傷ついた者や弱い者に憐れみを施してくださる神様の心を持つ必要があります。

 

アンモン人への裁きも宣告されます。 「アンモン人」は、アブラハムの甥ロトの子孫です。 イスラエルがエジプトから出て来た時、神様はアンモン人の領土を侵略してはならないと命じられました。 神様がその地をアンモン人に所有地として与えられたからです(申命記 2:19)。

 

しかし、アンモン人は、神様が与えてくださったものに満足しませんでした。 欲に駆られて、ギルアデを侵略し、妊婦たちを切り裂くような蛮行まで犯しました。

 

この罪により、神様の裁きが戦場の荒々しい鬨の声のように、吹き荒れる突風のように、彼らを襲います。 彼らの残酷さと同じくらい、神様の裁きは残酷です。

 

自分の欲を満たすためにいのちを踏みにじる罪を、神様は決して軽視されません。

 

死に値する罪を代価なく赦される恵みを受けたのにも関わらず、隣人に対する私の心はどれほど冷ややかだったか、自らを振り返りたいと思います。 弱く疎外されている隣人を憐れまれる主の眼差しを、私にも与えてください。 利己心を捨て、憐れみの心で隣人を顧みることができますように。 御霊の照らしと導きがありますように。